JINSEI STORIES

滞仏日記「30年前の尾崎豊とセンチメンタル・ジャーニー」 Posted on 2021/02/13 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、NHKのドキュメンタリーの撮影というか、カメラテストを兼ねて回していたら、ぼくの背後を通りかかった男の人と目があって、ボンジュールと声をかけられた。
ボンジュールと返すと、
「日本人?」
と日本語で聞かれたので、そうですよ、と言ったら、そのおじさん、満面の笑みになって、カメラの前に仁王立ち、おいおいおい、撮影中なんだけど、と思ったけど、日本が好きな人を無碍にできないので、日本語わかるんですね、と言ったのが運のつき、
「ぼくは家庭教師に毎週ならっているんだ」
とカタコトの日本語が戻ってきて、いわば、捕まってしまった。
「ぼくは17区の薬局をやっているから、いつでも来てください。日本はすばらしい国ですよね」
エトセトラ、エトセトラ、・・・



やめとけばいいのに、自分は作家です、と地道なプロモーションを展開し、自分がフランスで受賞したことなどをペラペラ喋ったから、さあ、大変。
一緒に写真撮影しましょうと言うことになって、2ショット、おじさんと・・・。
「なんで、そんなに日本語が上手なの?」
別れ際に聞いたら、
「昔の彼女が日本人でした。でも、うまくいかなくてね、言葉の壁が大きくて。だから、それからわたし、日本語上達しなきゃ、と思って、必死で勉強してるんだよね」

滞仏日記「30年前の尾崎豊とセンチメンタル・ジャーニー」



でも、その時、脳裏をかすめた記憶があった。
それは30年以上前の古い記憶であった。
ぼくは一年間、ニューヨークに住んでいた。その時、尾崎豊も少しの期間、ニューヨークに住んでいて、たまにだけど、ダウンタウンで落ち合い、二人で飲んだり、一緒にレコード買いに行ったり、寿司を食べにいったりした・・・。
よく飲みにいくぼくの行きつけ日本酒レストランがダウンタウンにあった。
酔っ払って語り明かして、しかし、尾崎は酒が強かったから、もういっぱい行こう、ということになり、身が持たないので、仕事があるとかなんとかいろいろと理由をこしらえ、ぼくらはタクシーを拾うことになる。いつものこと・・・。
酔っていたし、だから、車内でも、大声で、話し込んでいた、と思う。
その時、尾崎は、日本から逃げてここにきた、ということを仕切りに話していた。それはいつも、酔うと出てくる口癖のような、・・・。
何から、逃げてきたの? とぼくは聞いた。
彼は具体的なことは言わなかったけれど、どうも、本当のことを話せる人が周りにいないようだった。
でも、ぼくはそれ以上を聞かなかった。なぜかというとぼく自身、たぶん、人生から逃げていたからである。
そこはニューヨークで、みんな心に傷を持つ身なのであった。



すると、いきなり、深夜のマンハッタンで、
「日本人?」
と運転手さんに日本語で聞かれてしまうのだった。
こちらを振り返った運転手さんは褐色の肌をしていた。
「日本語、わかるの?」
と尾崎が驚き聞き返した。明け方に近い時間帯に、マンハッタンで、不意に日本語が聞こえてきたら、誰だって、驚く。80年代のことである。
「わかるよ。日本語だもの。ぼくは、西武新宿線の・・に住んでた」
あまりにも具体的な駅名が出てきたので、もう一度、びっくり。
「なんでニューヨークにいるの?」
と今度はぼくが聞いたら、
「恋人がいたんだけどね、ビザとか仕事とか差別とか、いろいろとあって、ぼくらは別れないとならなくなったよ」
とその男は言った。

不意に酔いが冷めたのを覚えている。尾崎もぼくも黙ってしまった。
でも、運転手さんはしゃべり続けた。
「ニューヨークに逃げてきた。ここは世界中から逃げてくる人の街なんだ。君たちも逃げてきたんだろ?」
その時の尾崎の横顔が、淡い光りに縁取られた横顔が、心に焼きついて今も離れない。



尾崎が死んで、彼の葬儀にぼくは出席した。
思い出すのは、その当時のことばかりだった。ほんのわずかな期間の、ある意味、意味があるようで、実は意味もない、寂しさを埋め合うだけの日々だった。
あの尾崎豊も生きていたら、50代ということになる・・・。
時々、尾崎のことをもっと聞かせてと尾崎ファンの友人に聞かれるけれど、・・・。
不確かなことが多いし、ぼくは時々、記憶喪失になるから、語れない。
でも、青春というものと常に対峙していたあの日の尾崎の思い出は還暦を過ぎた今もぼくの心の中に、強く焼きついている。なんでなんだろう?

滞仏日記「30年前の尾崎豊とセンチメンタル・ジャーニー」



「じゃあ、また、会いましょう。きっとご縁があるでしょう」
とその日本語の上手な男性は言った。
「わたしの名前はヨハンです。わたしはオランダ人です。わけあって、今はフランスに辿り着きました。そして、薬局を経営しているんです。あなた、困ったことがあれば、来てね。私にできることはしますよ。ご縁だから」
そう言い残して、オランダ人のヨハンは去っていった。
たぶん、この人ともう会うことはないだろう。尾崎とも、あの褐色の肌の運転手さんとも、会うことはないのだから、・・・。
ぼくは時々、カラオケで尾崎の歌を歌う。あいつは永遠になった。ずるいな、と思う。
生き残ったぼくは、あれから30年の歳月を費やし、やっとフランスの田舎に静かな逃げ場所を見つけたのだった。

滞仏日記「30年前の尾崎豊とセンチメンタル・ジャーニー」



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