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滞仏日記2「息子の恋人の声がまるでメロディのような冬の夜」 Posted on 2021/02/09 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、毎晩、息子の部屋から女性の声が聞こえてくる。
ある時から、それは最近のことだけど、声が聞こえるのと前後して、息子はドアを閉めるようになった。
17年間、彼は一度もドアを閉めたことがない。
ぼくが子供の頃は両親に干渉されたくないので、いつもドアを閉め、鍵もかけていた。
それが、息子は昔からずっと、いつもドアを開けっぱなしにしていた。
多分、寂しい日々が長く続いたので、ぼくには生意気だけど、どこかで、家族を近くに感じていたくて、どこかで寂しくて、ドアを開けて生きてきたのだと思った。
それが少し前に、女性の声が聞こえてきたと思った途端、椅子から立ち上がる音がして、引き続きバタバタと戸口まで走る足音に続いて、バタンとドアが閉まる音が響き渡るのだった。
ぼくは近くの机で作業をしていたのだけど、その音にびっくりしたのだった。
その頃から、少し鼻に抜ける若い子のメロディアスな声が聞こえてくるようになる。
それが、新しいガールフレンドだ、ということくらい、17年も毎日一緒に生きてきた父が分からぬことでもあるまいに、のォ、息子よ。
ふふふ。

滞仏日記2「息子の恋人の声がまるでメロディのような冬の夜」



しかし、今回は「ガールフレンドが出来たよ」という報告がないまま、月日が流れて、すでに2月になっている。
紹介してくれない寂しさもあるが、その分、彼が大人になった、という証拠でもある。
羨ましいけど、そっとしとくのがいいだろう。
夕食の時間、ぼくらはいつものように並んで食事となった。
息子の機嫌がいいのは、親なのでよくわかる。
「なんか、いいことあったの?」
ちょっと、かまかけてみた。
「ないよ、いつもの通りだけど」
「そうなんだ。なんか最近、おしゃれだからさ」
「そうかな。髪切ったからじゃないの?」
「なんか、BLTみたいだし」
「BLT? BTSじゃなくて?」
「あ、それ、ちょっと間違えた。ベーコンレタストマトじゃないね」
「ぜんぜん、間違えてるじゃん」
ぼくらは笑いあった。でも、まんざらじゃないような息子。
なんか、前髪ぱっつンの今時の短いおかっぱヘアなのだけど、似合ってる。
ま、モテルだろうなぁ。
「なんか、いいことあったでしょ?」
「しつこいな、ないよ」
「最近、部屋から若い女の子の声が聞こえてくるけど、あれ、アンナちゃん?」
「違う」
視線が泳いだ。ま、これ以上、尋問はやめておく。この子が幸せなら、それでいい。
雪が降るほど寒いのに、先週末の土日は、5時間くらい外出していた。カフェもどこも開いてないし、今はデパートもコロナ政策で閉まってるというのに、いったいどこをふらついているのか? 
めっちゃ寒い、と震えながら帰ってきた。恋の力は偉大だ。



しかし、コロナ禍のこの時節、息子にちゃんとした恋人が出来たなら、父ちゃんは大喜びである。
エルザちゃんに恋をして、ナントまで引率していった2年前が懐かしい。
失恋の曲を聞かされ、わかるなぁ、と思った父ちゃんでもあった。
時は流れた。17歳になった息子は大学受験を控え、ヤングラブも、次第に、トゥルーラブへと向かっていく。恋愛の土台が整ってきたようである。
浮き足立ってないし、エルザちゃんの時は、目も当てられなかったけれど、あの頃とは全然違っているやり取りの雰囲気から、息子の成長をかぎ取る父ちゃんであった。
ふふふ。

滞仏日記2「息子の恋人の声がまるでメロディのような冬の夜」



「ところでパパ、携帯の暗証番号思い出したんだよね?」
「ああ、もう大丈夫。一時はもうダメだと思ったけど、他の暗証番号は全部覚えていた。さっき、古い携帯から新しい携帯にデータを全部移した」
「仕事し過ぎなんじゃないの?」
「そうだね。実は今日、とある仕事の人とZOOM会議やることになっていたのに、まだ、やってないなぁ、と思ってさ。そろそろメールしておこうと思ったら、先月の中頃にZOOMの招待メールを自分から彼に出していた」
息子の目が点になった。わ、何、その目、…。
「それ、やばくない?」
「やっぱ、やばいのかな?」
「そう言えば、先月と先々月のお小遣いまだもらってないんだけど」
「え? 嘘だ。あげたじゃん。百ユーロ札渡したよね、で、おつり貰ったし。二回分、60ユーロだから、おつり40ユーロ」
「よかった。覚えてるね。さすがにお金のことだけは」
え? あはは。
ぼくらは笑いあった。
「本当に、覚えてないの?」
「いや、そう言われると、なんとなく、覚えてるよ。毎日、ZOOM会議があるからさ、時には忘れることもあんでしょ?」
「忘れたこと他にある?」
「ないよ。あ、ある!」
「何?」
「不幸だった頃の思い出、全部!」
ぼくらは笑いあった。

地球カレッジ

滞仏日記2「息子の恋人の声がまるでメロディのような冬の夜」



息子が自分の部屋に戻ると、まもなく、あの子の声が聞こえてきた。
どこかメロディのような声。
今までのガールフレンドと違うのは、落ち着いているところ? 声に音楽がある?
もちろん、息子はドアを閉めている。
だけど、スピーカーから溢れ出てくるその子の声はぼくの部屋まで筒抜けなのである。
ちょっとハスキーで鼻にかかっていて、もしかしたら歌ってる子かもしれない。いい声だな、と思った。
息子の恋人なのに、早く紹介してほしい、と思うと、自分のことのように嬉しくなる父ちゃんだった。紹介してほしいなぁ、…。
テレビの制作会社のLさんに、辻さんって、孤独が似合うので、海とか一人で歩いてください、といわれた。昨日のことだった。こういうのは忘れない。笑。一生、忘れません。
幸せが似合わない男というイメージが定着しているということか。えへへ。
ZOOMの画面の中で、みんな微笑んでいた。
記憶の羽根という小説を昔書いたことを思い出した。
はじめて好きになった人と交わした口づけの感触を思い出した。
息子の恋人の声が音楽のように家の中を漂っていた。
さてと、寝る準備をしようかな。



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