JINSEI STORIES
滞仏日記「夜中にうなされていたニコラのことが気になり」 Posted on 2021/02/01 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、ニコラは、地球カレッジがあるので、10時前に帰った。
迎えに来たのはお父さんで、「ごめんなさい。助かりました」と恐縮しながら、息子の手を引っ張っていった。
ニコラが階段を下りながら何度か、ぼくを振り返った。その目が訴えているもの、…。
ぼくは手を振っていたが、地球カレッジの回線チェックまであと数分と迫っていたので、あまりちゃんとした言葉をかけてあげられなかった。
でも、講義中も、ずっとニコラのことが頭の片隅にあった。
親が離婚をすれば、子供たちがある種の犠牲になる。
親も生きているので恋愛をしないとならないし、コロナだから、ストレスもマックスなのはわかる。
人間、大人も子供も、どこかで息抜きや希望が必要な時代なのである。
地球カレッジが終わって一息ついた後、ちょっと気がかりもあったので、ニコラのお父さんに電話してみることにした。
「どうですか? ニコラは?」
「ありがとう。今、絵を描いています」
「その、なんで電話したのか、というと、昨夜、トイレに起きた時にニコラの様子を見に行ったのですけど、ちょっとうなされていたので…。うちの子も、離婚の直後にやっぱり、うなされてました。怯えるような、逃げるような、結構、はっきりとした寝言で、多分、何かを思い出しているのだと思います。あんまり、あなたを責めたくないけど、子供には罪はないので、優しく接してあげてください」
「あの、もちろんです。その、ちゃんと接しているつもりですけど、もしかしたら、その、仕事がうまくいってなくて、どうしていいのか、わからないので、そこをニコラが察しているのかもしれません。コロナがフランスをめちゃくちゃにした。ぼくの人生も、あの子たちの人生も、・・・。そういう影響があるのかもしれません」
これはフランスだけの問題じゃない。日本も、アメリカも、世界中、どこの国も大変なのである。
仕事を失った人も多い。失わないまでも、あらゆる業種がうまくいってない。
ロックダウンは免れたが、デパートや超大型店舗が封鎖されてしまった。あらゆる業種が厳しい状況下に置かれている。
ニコラのお父さんはその直撃を受けた一人だ。
それが引き金となって離婚に、…。
ニコラのお父さんも生きて行かないとならない。
何か生きる希望がないとならない。
ニコラのお父さんが新しい恋愛に向かって、そこに生きる目的を見つけているのは、悪いことだろうか? いいや、そうじゃない。他人のぼくがとやかくいうのもおかしい。
その辺を全部一緒くたには出来ない。
ただ、フランスの法律が素晴らしいのは、親権を両方が持ち、話し合って、毎週子供たちが双方の家を行き来しないとならない、というところだ。
お父さんとお母さんはだから、喧嘩別れをしても、子供のことではちゃんと話し合って、毎週、どちらかが子供の面倒を見ている。
だから、二人は離婚をしても、それほど離れていない距離で暮らしている。行き来が出来る距離にいる。
ニコラのお父さんは、どうやら、恋人がすでにいるようで、その人と会う時間も必要なのだ。でも、コロナだし、どういう相手かわからないけど、その人にももしかすると子供がいるのかもしれないから、会える日が限られてしまう。
ニコラのお母さんは先週もニコラとマノンの面倒をみている。
ところが昨日は急にお父さんの恋人が泊まりに来ることになって、どうやら、ニコラはうちにやってきたんじゃないか、とぼくは推測している。たぶん、そうだと思う。
こう書いちゃうと、読者の多くがお父さんを批判するかもしれない。
でも、それも人生なのだ。息抜きをしないと耐えられない世界だから、ぼくのような暇な人間が子供の面倒をみられるなら、みればいいだけのことなのじゃないか。
でも、ニコラの心の状況を知っておいて貰いたいので、うなされていたことだけは、伝えておくべきだろう、と思って、電話したのである。
あとは、お父さんが考えることだし、以上、そこは切り離したい。
また、預かってくれ、と頼まれたら、ぼくは喜んで預かるつもりでいる。自分に出来る役目があって、嬉しいし…。
「うちは構わないですよ。長い付き合いだし、ぼくはニコラもマノンも好きだから。でも、その、なんていうのかな、うまく言えないけど、ええと、負けないでください。お父さんとして、ニコラを優しく抱きしめてやってほしい。たまには、一緒に寝てあげてください。まだ、10歳だから、そういうぬくもりが必要な年令ですよ」
「そうですね。そうします」
言うべきことは言ったので、ぼくは電話をきった。
息子は自分の部屋で歌っていた。近所迷惑なくらい、大きな声で、愛の歌を…。
さて、日曜の夕飯の準備をしなきゃ、と思った。キッチンで冷蔵庫を覗いていると、携帯に、メッセージが入った。
慌てて覗くと、ニコラのお父さんからであった。
でも、メッセージはニコラからだった。
「ニコラだよ! ドロールおじさん(変なおじさんというのがぼくのあだ名)、昨日はありがとう、パスタ、めっちゃ美味しかったよ。それから、ぼくは大丈夫だよ。今日はずっとマンガ描いていたし。日本のマンガ、大好きだから、これ、今度、おじさんにあげるね。ニコラ」
相変わらず、めげない子である。それが何よりの救いでもあった。