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滞仏日記「愛するものがいなくなる悲しみを人はどうやって乗り越えて行くのか」 Posted on 2021/01/22 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、乾燥機がぼくを呼んだ。
ピピピ、という音が風呂場の方から聞こえてくる。うるさいなぁ、と思った。
息子が戻って来て洗濯していたのだけど、彼は忙しいのか部屋から出てこない。
うるさいから、停めに行ったら、乾燥機の蓋が自動的に開いたので、中のものを畳んでやろうと思って取り出したら、その中に、ぼくがもう何年も毎日大事に着続けているウールのセーターがあった。
え?
これはアイスランドに旅行に行った時に、一目惚れをして買ったもので、手編みだから型崩れもしないし、本当に自分にフィットして、ほとんどのウールのセーターが肌に合わないのになぜかこのセーターだけは自分の肌にもぴったりとあって、痒くもならないし、何より着心地もよく、アイスランドならではの不思議な色合いが大好きで、昼だけじゃなく、寝る時にも、脱ぎたくなくて、実は、昨日も一昨日も一日中、ずっと着ていたのだ。
そんなに大好きなセーターをぼくはシャワーを浴びる時に風呂場の籠の上に脱ぎ捨てていたのだけど、息子がよかれと思って、普段はやらないくせに、自分の服と一緒に洗濯機の中に放り込んで、ボタンを押してしまった。

滞仏日記「愛するものがいなくなる悲しみを人はどうやって乗り越えて行くのか」



少し前に、もう20年近く着ていたエルメスのぼろぼろのセーターも洗濯され、縮んで怒ったばかりだったが、息子のせいではないにしても、愛着を持って着ていたものが着れなくなるのを、何と表現すればいいのだろう?
今、リースしている車なんか壊れてもぜんぜん痛くも痒くもない。
実際、昨日、誰かが側面を擦って逃げたのだけど、別に愛着がないから、何とも思わない。修理代が損したくらいで済んだ。
でも、このアイスランドで買ったセーターは同じものが手に入らない。
ぼく自身の分身のように大事に思っていたからであろう。
ぼくが愛したものは数が少ない。本当にその服が大好きだった。こういうのを読者の皆さんにお伝えしても、「残念な話し」で終わりになるのだろう…。
誰かが亡くなった時の悲しみは家族にしかわからない感情に、似ている。

滞仏日記「愛するものがいなくなる悲しみを人はどうやって乗り越えて行くのか」



でも、アイスランドのセーターはエルメスのセーターの何分の一くらいの金額だったけれど、同じものはもうないし、多分、探せないだろうし、何より、毎日着ていたから、残念を通り越して、ショックなのである。
地元の人の手作りと謳われていたもので、見た瞬間、こんなところで待っていてくれたんだぁ、とまさに一目惚れだった。
その日から、何年になるだろう、ずっと今日までほぼ寒い季節は、毎日、着て過ごしてきた。苦しい日々のぼくを温めてくれたセーターだった。
でも、縮んでしまったセーターは縮んだだけじゃなく、ごわごわになって、もう同じものじゃなくなっていて、着心地もぜんぜん別もので、どうしちゃったの、何で変わったの、と驚くくらい別人で、それは何か、愛したものの死とはこういうものだな、と思わされるほどの衝撃をぼくに持ち込んだ。
ぼくは大声を出してもうこれが元に戻らないことを知った瞬間、泣いた。

地球カレッジ

滞仏日記「愛するものがいなくなる悲しみを人はどうやって乗り越えて行くのか」



寂しいから犬を飼おうと数日前の日記に書いたけど、もう無理だ、と思った。
愛犬が自分よりも先に死んだら苦しすぎる、と思った。
ぼくはそういう人間なのだ。
もともと、お金には価値をあまり見いだせないけど、ぬいぐるみのちゃちゃとか、いつもはいてる下着とか、セーターとか、生きる上で、傍にいる、傍にある、身の回りにあるものを極端に大事にしてしまう性格で、たかがウールのセーターなんだけど、さっきまでの自分が死んじゃったような寂しさはもう、どうしようもない。
コロナ禍で心が叫びたいから、大げさになっているのも、あるかもしれない。いや、あるだろうな。
晴れた日で、いいことが続いていたら、すんなり諦められたかもしれない。
セーターでさえも、こんなに苦しいのだから、これが愛犬だったら、ぼくはきっとおかしくなってしまっていることだろう。
犬が本当に好きだから、犬は飼わないでもういい、と思った。

滞仏日記「愛するものがいなくなる悲しみを人はどうやって乗り越えて行くのか」



セーターの死をこうやって文章にすることで頭の中でようやく、少し、整理することが出来つつある。
愛する誰かを失った人の悲しみはセーターごときと比較にならないほど悲しいだろうなぁ、と思うとその人たちの悲しみが乗り移って来て、また涙が零れそうになった。
バイデン新大統領が愛していた息子の墓の前で、涙を流した姿を思い出した。
あれだけの経験を持っている大人なのに、と思うと切ない。
こういう風に、自分を保たないとならない苦痛というのが人間には生きていると付きまとう。
でも、どうしようもないことなんだ。
誰の責任でもない出来事や不慮の事故は起こる。
病気だって、ある日、突然やって来て人々を苦しめるじゃないか。
ただ、諦めることが出来たけど、もう、あのセーターを着れないという事実だけがこれからずっとぼくの横に居続けることになる、それは死別のようなもの、仕方ないね。そのうち、ぼくは忘れていくのだろう、写真だけが記憶の中に手触りとともに残るのだ。
文章にしたら、落ち着いてきた…。
やっぱり、日記は心を落ち着かせる。
苦しい毎日であるなら、日記を書くべきである。

滞仏日記「愛するものがいなくなる悲しみを人はどうやって乗り越えて行くのか」

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