JINSEI STORIES
退屈日記「ぼくはようやく海にたどり着いた。青空が広がる別世界だった」 Posted on 2020/12/16 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、人間はたまに一人にならないといけない。
ぼくは自分を許さないといけないし、自分を休ませないとならない。
自分をいたわるのは自分にしかできない。
大事なことは、自分がいま、どういう精神状態にあるのかを理解してあげることだ。
ぼくは自分に聞いた。どう? 大丈夫かい?
「いや、がんばれないかな。今は、ちょっと」
「OK、じゃあ、旅に出ようか」
孤独になることは大事なことだ。
ぼくは主夫である前に作家であることを思い出さないとならない。
作家である前に人間であることを思い出さないとならない。
人間性を回復させるために旅に出る。
コロナからも離れないとならない。パリは人が多すぎる。
ロックダウンが解除され、制限が緩和され、クリスマスも近いせいで、そこら中に人が出ている。
雨のパリを離れ、小型車でぼくは海を目指した。
ハンドルを握るのは久しぶりだ。凱旋門を通過し、高速道路に入った。
ロックダウンが解除されたばかりだから、まだ人の移動がなく、がらがらであった。
まっすぐのハイウエイを突っ走る。喜んでいる自分がわかる。
ぼくは一人になりたいのだ。
洗濯や掃除から離れないとならない。主夫業を休まないとならない。
ブルターニュ地方のサンマロまで、車だと130キロで運転して、4時間くらいだろうか?
何も考えないでアクセルを踏み込み、どこまでもまっすぐなハイウエイをひた走った。
曇天のパリから出ると、不意に、光りに出迎えられた。
ハンドルを握りしめる手から、少しずつ力が抜けていく。
一条の光りがハイウエイの先にさす。
息子のことは大事だけど、ぼくは一人にならないといけない。
人間には孤独が必要なんだ。
ぼくはラジオをつけた。ジャズが流れる。マイルス・デイヴィスだ。
130キロの制限速度を守りながら、ブルターニュ地方を目指した。
給油する必要が出たのでSAに立ち寄った。
パリを出てすでに2時間ほどが過ぎている。
振り返ると晴れ間が広がっていた。きれいな光りだ。
ぼくは微笑んでいる。深呼吸をした。なんて、澄み切った空気なのだろう。
コーヒーとサンドイッチを買った。施設内の椅子はすべてテーピングされ、座れないようになっているので、ちょっと寒いけど建物の外のベンチに座って、朝食兼昼食をとった。
学生に戻ったような自由な気分だ。
ロックダウンが解除され、外出許可証を持たなくていい。
好きなところに移動ができる。
なんて人間的なことだろう、と思った。でも、マスクはしている。
バゲットのサンドをかじりながら、いったい、コロナがもたらしたものはなんだろう、と思った。
カフェオレがうまい。
こんな世界が訪れるとは想像もできなかった。
たとえ、どんな世界であっても、ぼくは人間でい続けたい。
ぼくは人間らしく生きたい。だから、カフェオレが美味しいのである。
家の仕事から解放され、心が軽い。
主婦仲間に申し訳ないけれど、ここは仕方がない。
カフェオレがこんなに美味しいのだということを思い出すことができた。
オンザロード・アゲインである。
高速を降り、県道を走った。海沿いの道を走った。
サンマロ市内を通過し、ぼくは宿のある浜辺の村を目指した。
小さな家が点在する、名もない村である。
一度も行ったことのない土地、知り合いのいない世界がぼくを待っていた。
ぼくは今、何者でもない。フランスの田舎にいる。それがうれしかった。
そうだ、クリステルにメッセージを送ろう。
「着きました。多分、家の前です」
すぐに返事が戻ってきた。
「15分くらいで行きますから、待っていてください」
「OK」
クリステルは管理人だ。彼女から鍵をもらい、帰る日にもう一度会って鍵を返す。
小柄できびきびとしたブレトン(ブルターニュ人)である。
支払いは済んでいるし、超短期貸しの家を手に入れるような感じだろうか。
ネットで周辺の環境や部屋の写真などをチェックしておいた。だいたい想像通りの世界であった。
人がいない。孤独に最適な場所。でも、光りが美しい。誰も歩いてない。本当に過疎の村だった。
「寒ければデロンギがあるわ。海へ出るなら裏庭に回って、細い私道がある。1分で行ける。出たら、別世界よ。楽しんで」
「ありがとう。食べるものはどこで買えばいい?」
「そうね、この辺は何もないから、車でサンマロまで戻って、その途中に大型スーパーがある。そうすれば何でも手に入るわ」
「OK」
「私、日本人好きよ。真面目だから。ムッシュ、何か問題があったらいつでも言って」
「ありがとう」
40平米くらいのアパルトマンだがホテルよりは広いし、キッチンもついている。快適だ。
まず、窓を開けて空気を入れ替えることにした。
パリは雨だった。でも、ここは晴れ渡っている。
20時から外出禁止令のために出られない。
食料を買いにサンマロまで行かなきゃならない。
でも、その前に海に行こう。風が強いので、ぼくは持ってきた分厚いコートを重ね着して、出た。
裏庭から海へと続く、トンネルのような細い道がぼくを待ち受けていた。ああ、すごい。想像力を掻き立てられる。
ぼくは迷路のような回廊を歩いた。
人間性が戻ってくるのが分かった。
次第に笑みがあふれ出した。
暗い小道の先に海が見えた。ぼくは急いだ。
小さな扉を開けて出ると、そこは砂浜であった。
目の前にイギリス海峡が広がっていた。
深呼吸をする。ぼくがぼくに戻る瞬間であった。