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滞仏日記「主婦はほんとうに凄いぞ、とぼくは褒めたい」 Posted on 2020/12/14 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、主婦業というものには、休みがないことを世のお父さんたちもっと知るべきだと思う。一年365日、主婦は働き続けている。
本当に主婦の皆さんには頭が下がる。偉いと思う。
誰も褒めないなら、ぼくが褒めてあげたい。
ぼくなんか、結構、あかん主夫で、月に一度か二度は身体も心も動かなくなり、へこたれて、動けなくなっている。
ここのところは酷くて、起き上がれない。
今日は日曜日だったけど、地球カレッジの講座があったから這うような感じで仕事場まで行き、笑顔で俵万智さんと「短歌教室」をこなした。
俵さんもシングルのお母さんで、うちの子と同じ歳の男の子を育て上げた。言わば、仲間なのである。
だから、俵さんには癒されたけれど、終わった途端、自分が不調であることを思い出し、またしても動けなくなった。
マジで、限界だった。



不調が長引いている。
それでも毎日は容赦なくやって来る。今日は料理が出来なくて、昼はサンドの材料だけテーブルに置き、仕事場に出かけた。
生配信が終わって家に戻るともう夕方で今度は夕食の準備が待っていたけれど、本当に動けなくなって、ギブアップしてもいいかな、と天に向かって呟いてしまった。
せめてカフェに行けたらなぁ、とか、大昔に行ったハワイや沖縄の海のことを思い出したら、涙目になった。
だから、今夜はもう料理は作らない、今夜はどこかで注文しちゃおう、と決めた。それくらい、許されるだろう。
でも、ロックダウンな日曜日にやってる店は少ない。
その時、脳裏をよぎったのが、マダム・ウオンであった。



前の前の前のアパルトマンの近くにあった中国人夫婦がやっている寿司屋さん。
日曜日も営業している。
前は近かったから届けてくれたけど、今は、区が違うし、雨だし、普通だったら配達してくれる距離ではない。
でも、もしかしたら、と期待を抱き、ぼくは2年半ぶりくらいに電話をかけることになった。
「ボンソワー」
懐かしい、マダム・ウオンの声が耳元を擽った。
「ボンソワー、ジュスイムッシュツジー(辻ですよ) 覚えてますか?」
「ああああ、ツジー、ムッシュ、ツジー―――」
「ういいいい、セモア(私です) ツジー、カムバック!」
「おおおお、サバ? ブザレビアン?(お元気ですか?)」
とウオンさん、有難いことに、覚えていてくれた。
「ずいぶんと久しぶりだけど、ロックダウンで日本に帰ったと思ってましたよ。息子くん、元気?」
「ウイー、元気ですよ」
「よかった。配達ですね? 何にします?」
マダム・ウオンは3人の子供のお母さん。どんな時もハキハキ元気で、休んでるところを見たことがない。
本当に逞しいお母さんなのである。
「いやあ、パリにいたけど、ロックダウンだったし、行けなくてごめんなさい。それに、あれから2回引っ越してるんですよ。それで、ちょっと遠いのだけど、配達、可能でしょうか? ぼく、今日、まったく力が出ないんだ」
今住んでいるアパルトマンの住所を伝えた。申し訳なくなるくらいに遠い、…。
「もちろん、届けますよ。届ける範囲を超えているけど、あなたが辛いなら、届けるよ」
言葉が胸に染みる。
「シェーシェー」
「ドリアンドリアン(どういたしまして) 30分で届けるね」



ところが30分待ってもやって来ない。いつもは時間前にはやってくるのだが、やはり、遠いのかもしれない。
「電話してみるかな?」
「やめなよ、急かさない方がいい。待ってれば必ず来るから」
息子にとめられた。
窓辺に行き、外を見ると土砂降りだった。申し訳ないことをしたかもしれない。
窓から身を乗り出し、通りを見回したけど、雨のロックダウンの日曜日、誰も歩いていない。
部屋に戻り、携帯を握りしめ、何度も、悩んだ。一時間が過ぎている。
息子がやって来て、確かに、遅いね、と心配しだした。
「やっぱ、電話してみる」
1時間30分が過ぎた頃、ぼくは痺れを切らして携帯を掴んだ、ちょうどその時、ブーーー、と玄関のブザーが鳴ったのである。
「ウオンさ~~ん!!!!!!」
インターホンの画面に懐かしいウオンさんの顔が映っている。
しかも、笑顔で、手を振ってくれている。
ああ、涙が出る。



再会したウオンさんはまず、
「息子くんは元気かい?」
と言った。
奥から、息子が顔を出すと、いやあああああ、大きくなったねぇ~、あんたぁ、と親戚のおばちゃんのような感じで言った。
この子がまだ小学生の低学年だった頃に、しょっちゅう、巻き寿司を買いに行ってた。
ちなみに、ウオンさん、爆笑問題の田中さんに似ている。だからか、めっちゃ温かい感じなのである。田中さんがロン毛で化粧している感じで、いや、結構、可愛い人だ。
「ムッシュ、頑張ってね。いつでも倒れそうな時があれば配達するから、言ってね」
「うん、ありがとう」
ちょっきりしかお金がなくて、チップを渡せなかった。探したのだけど、僕も息子も小銭を切らしていた。愛も切らしていた。by JACK!
「ムッシュ、いらないから、そんなの気にしないで! 水臭いね」
ウオンさんが、そう言い残して階段をすたすた降り始めた。ぼくは慌てて、追いかけ、階段を見下ろし、しぇーしぇー、さいちぇ~ん、と言い続けたのだった。
気がつくと、優しさのおかげか、ぼくはやる気を取り戻すことが出来ていた。
よし、じゃあ、息子よ、喰うか! 

滞仏日記「主婦はほんとうに凄いぞ、とぼくは褒めたい」



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