JINSEI STORIES
滞仏日記「人のカチーンを見てわがふり直せ。父ちゃん」 Posted on 2020/12/08 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、朝の8時半からZOOM会議があるので、登校する息子と一緒に家を出て仕事場(水漏れ工事が年内絶望的なため古いアパルトマンをそう呼ぶこと)に向かっていると、ピエールが娘のエリーズちゃん(9)の手を引きながら血相を変えてやって来たので、
「どうしたぁ~、ピエエエエーーール!」
と声を掛けたら、
「ツジーーーー、今は説明できない。遅刻なんだ、寝坊で。あとで、電話する」
「ローザは?」
ピエールが遠くを顎でしゃくった。ふてくされたローザ(14)がふてぶてしい顔で、ずいぶん後方からちんたらやって来る。
「急げ! 何やってんだ、急げ、ローザ!」
ピエールは角に停車してあったゴルフに乗り込み、エンジンをかけた。
ローザの不貞腐れた顔がわかる。ピエールがクラクションを激しく鳴らしたから、ぼくの心臓が飛び出しそうになった。
おいおいおい、穏やかじゃないな、ちょっとは落ち着け、と思わず日本語が飛び出した。
ローザはやって来るなり、後ろのドアをあけ、乗り込むと、今度はドアが壊れるかという勢いで、バタン、と閉めた。
ひえーーーー、なんだ、この親子。通行人もびっくり。
かなり、カチーーーン状態であることがわかったので、ぼくは肩を竦めて、黙って見送ることになる。
夏ごろの日記で、この親子のカチーン問題については一度書いた。
ピエールは離婚していて、週末子供たちを引き受けている。
14歳のローザは反抗期、思春期真っただ中で超素行が悪い、らしい。妹のエリーズがぼくにチクった。
夜中に帰ってくることもあるらしく、ピエールがガンガン怒ったら、あんたなんか親じゃないわ、とローザが叫んだのだ。
普段は大人しいピエールだけど、その一言は相当頭にきたのだろう、娘の携帯をたたき割ってしまった。
ローザはカフェのテラス席まで父親を追いかけてきて、みんながいるのに、大声でこう叫んだ。
「世界をなくしちゃったわ。ママが買ってくれた携帯をあんた壊す権利あるの。ろくでなしの、仕事もしないで、ママに振られて捨てられた情けない父親のくせに」
あちゃ~、気の毒過ぎる。
その後、ローザの携帯がどうなったのか、誰にも分からない。でも、今日のこの感じを見る限り、仲直りは出来てないようだ。
その時も思ったけど、今回もまた、思ったことがある。
もし、息子がローザだったら、ぼくはどういう態度をとっただろう。
カチーーーンどころじゃないかもしれない。
14歳の女の子が夜中に帰ってくるなんてことは想像も出来ない。
ぼくに娘がいて、二人暮らしで、その子が深夜にアルコール臭い感じで戻ってきたら、きっと玄関の前で待ち構え、ピエール以上に、怒鳴り散らし、100%、ぼくも携帯を取り上げ、叩き割っていたはずだ。100%!
息子の持ち込むカチーンが相当可愛らしい問題に思えて、遠ざかるゴルフを見送りながら、不謹慎なことに少し安堵してしまった。
もっとも、エリーズとローザにはかなりしっかりしたお母さんがいるようだから、比較されるピエールも辛い。
ピエールは、自称写真家、映画監督、DJ、ミュージシャンなので、いつもカフェで空想のようなバカでかい作品の構想ばかり話しているけど、彼の作品をぼくは一度も見たことがない。
でも、自称芸術家だらけのパリジャンだから、ピエールが特別というわけでもない。
結局、ピエールから電話はかかってこなかった。
けれども、午後、新居に戻る途中で再びばったりと出くわしてしまった。広場にベンチがあったので、ちょっと話そうか、となった。
「仕方ないからさ、アイホン買ってやったよ。一番安いやつ」
あ、うちの息子と一緒だ、と思った。
「でも、後悔している。全ての元凶は携帯からもたらされている。毎晩、低い声の男と長話しているし、げらげら気色悪く笑って、当然勉強もしない。宿題しろ、と言うと、うるさいな、やったよ、と不良みたいに汚い言葉遣いだ。いや、ツジ、あいつはもう不良決定だよ。頭に来てしょうがないんだ、ローザには」
カチーンだ、これは、間違いなくカチーン決定だ、と思ったら、他人の不幸が嬉しくなって、笑顔になった父ちゃんである。
ぐふふ、いいぞいいぞ、もっとやれー。←他人の不幸は蜜の味じゃ。
ピエールが睨んで、なんで笑うんだ? と肩を竦めながら吐き捨てた。
「いや、すまん、すまん。どこの家も一緒だなって思ったら、嬉しくなっちゃって」
「ハ?」
「俺もよくカチーーーンってなるんだよ(カチーンという仏語はないので、彼らがよくつかう汚い仏語を代用した)。でも、ピエール。ローザはまだ14だ、これからさらに難しくなるぞ。夜中どころか朝帰りになるだろうし、戻ってこないかもしれない。低い声の悪い男が傍にいるみたいだから、気を付けろ」
「ハ? お前、なんてこと言うんだ。それに、なんで、そんな恐ろしいことを、ニヤニヤ笑いながら言うんだ?」
「笑ってる? すまん。まずいな、それは…。ただ、仲間がいるのが嬉しいんだよ」
「ハぁ?」
「俺だけがこんな辛い思いをしているのかと思う時があるからサ、こうやって年ごろの子に手を焼いている友人が近くにいて、頭抱えていると、なんての、心強いというか、寂しくないんだ」
「変なこと言うなよ、ちっとも共感とか出来る話しじゃないし、お前んとこは男の子で、大人しいからぜんぜん比べものにならないよ」
そうだ、と思ったので、
「たしかに、あの子でよかった」
と本音が漏れたら、ピエールが飛び上がり、ハぁ???、と雄叫びをあげた。
「ありゃ、つい、本音が飛び出した」
「ムハぁ~~~~?」
ぼくは笑った。ピエールが今、超カチーーーーーーーーーーーーーーーーーーンなのが嬉しかった。まあ、座れよ、となだめ、ぼくはいきり立つ彼の愚痴に付き合った。
ようは、手に負えない、ということだった。
ピエールが報告する娘の素行の悪さを、ぼくは笑いを堪えながら聞き続けた。
聞き続けながら、親というのはこうやって、生きて行くものなんだ、と思った。
そうだ、ピエールも娘たちにちゃんと料理を作ってる。彼のムースショコラは本格的で、最高にうまい。いつだったか、エリーズが、パパのお菓子は美味しい、と褒めていた。
この子はローザと違って、気の利くバランスのいい優等生なのである。それもなんか微笑ましかった。
そうだ、全てが微笑ましい。
「ピエール、いいことを教えてやろう」
「なんだ?」
「ぼくは父親の先輩として君に言っておく。親とはそういうもんだ。いいか、みんな通る道なんだ。お前だけじゃない。俺も一緒だ。毎日、カチーンとなってるよ。でも、よくできた子なんて気持ち悪い。子供はずっと反抗期で思春期なんだ、当たり前なのさ」
これはフォロワーの皆さんに毎回、言われ続けてきた言葉だった。それをピエールに自分の言葉のように投げつけられることの、幸せ。えへへ。
ああ、今日はなんて晴れ晴れとしたいい日なんだろう。
ピエールは空を見上げた。どんよりと曇った最悪の月曜日の空が彼には見えていたはずである。