JINSEI STORIES
滞仏日記「ぼくがパリでも着物を着る、ちょっと大事な理由」 Posted on 2020/12/04 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、古いアパルトマンに冬ものの服を取りに戻った。
ここ最近、パリは急に寒くなったので、衣替えというわけじゃないけど、秋物を仕舞い、冬物を引っ張り出した。
ぼくはフランスで暮らしだした時、日本から何着かの着物を持ってきている。
当時はジャージがあまり好きじゃなく(笑)、サムイなんかで仕事をしていた。
冬は羽織りとかが温かいので、ジャケット代わりに羽織っていたこともある。
ぼくは年中ブーツなので、着物とブーツという組み合わせが好きだ。
作家だし、仕事道具が日本語なので、着物を着ていると心が落ち着くのは確かで、外に着て出ることは滅多になかったけれど、いつだってそこに着物的感覚があった。
特に日本橋で買った江戸小紋の着物がお気に入りだった。
江戸小紋は物凄く小さな柄なので、一見、無地かな、と思うほど地味なのだけど、その控えめなところこそが素晴らしい、と思う。
わざわざ、職人の方、そこのお店ではもう最後の職人と言われているような名人に型を作って頂き、特注した、と記憶している。
15年くらい前のことだ。
でも、結局、この着物ばかり着ている。
とくに気に入っているのが長襦袢(着物の中に着るインナーのような薄手の襦袢)で、鳥獣戯画が描かれている。
色も派手過ぎず、淡いブルーグレーである。
男性の場合、長襦袢は無地というのが相場だけど、そこの着物屋さんが「辻さんは、中を派手に、表を地味にするのが絶対、おしゃれです」とすすめてくれた。
常々、そうありたいと心がけて生きている。笑。
ぼくは裏地とかにこだわるタイプだったので、嬉しいアドバイスだった。なんというお店だったか、もう忘れてしまったけれど、由緒ある着物屋さんだった。
この長襦袢だけ羽織って、仕事をすることもある。
そう言えばスペインに一度、着物を着て、仕事に行ったことがあった。
出版記念取材だったけど、その時、生意気なジャーナリストに「日本人はこういう場所で着物を着たがる」と馬鹿にされたので、ぼくは即座に「確かに昔のスペインの服を着てるスペイン人に会わない理由がよくわかった」と言ってやった。若気の至り。
でも、確かに着物を着て行ったことを後悔した。まだ、着こなせる年齢ではなかった。
15年くらい前に、マレ地区の作家の集まりがあって、着物で行ったら、とある作家に「江戸の着物だね」と言われたことがあった。それは結構、びっくりだった。
「わかりますか?」
「わかりますよ。ぼくも似たような着物、持ってるから」
ロックダウンになる前、9月のことだけど、パレロワイヤルのカフェでスタッフと打ち合わせしていたら浴衣を着ている人がいた。日本人だ。
近づき、ご挨拶をした。お名前がちょっと思い出せないけど、確か伊藤さんだったかな?
たまに、着物で出歩くと気持ちがいいものでね、とおっしゃった。粋な方だった。
日本を離れて長いのだそうで、自分も着物が好きだから、なんか嬉しかった。
周りのフランス人は特に注目しているわけじゃなかった。女性で若い人が着ていると確かに目立つけど、ぼくら中年男性だと意外にも街に同化してしまう。
フランスの小学生は結構、柔道を選択している子が多いので、柔道着を着た子が普通に通りを走り回っていたりする。
残念なことに、日本では見かけない光景だけど、フランスは柔道大国だからか、道着を着た少年少女をよく見かけるので、ぼくが着物を着ていても、別に誰も驚かない。
ぼくは下駄とか草履が苦手なので、着物にブーツという恰好でたまに仲間たちと飲んだりする。
イメージとしては坂本龍馬とか、大好きな高杉晋作とか、笑。勝手なイメージね。
最近は帯が面倒なので着てないけど、今の方が、つまり歳を重ねた今の方が似合うんじゃないかな、と思うこともある。なにせ、メタボ下腹も出てきたし!
懐かしい着物を天日干ししながら、思った。着物の持つどこか中性的なのに芯の強い香りがそもそもぼくは好きなのであろう。
ぼくはもともと柔道をやっていたけど、パリに渡った頃にちょっとだけ合気道を習った。
習ったとはいえない程度だったが、師範は素晴らしい人徳者だった。
そこから合気の持つ精神世界が好きになり、武術というよりも、和という気についてよく考えるようになった。
くよくよしたり、人生を投げ出したくなったり、負けそうになる時、ぼくは着物に手を通す。すると落ち着く。
帯をしめると背筋が伸びる。
着物をちゃんと着こなしている方は姿見が美しい。
ぼくが渡仏を決めた時、一番最初のトランクの中に詰め込んだものの一つが着物であった。
※格好だけは一人前。弱いです。
聖徳太子のことば「和を以て貴しとなす」は実に大事な言葉である。
これはちょっと誤解されて広まっているような節があるけれど、誰とでも仲良くしなさい、という意味だけじゃない、と個人的には思っている。
もっと大事なことが隠されている。
和という言葉の訳し方次第なのだけど、仮に、対立する意見の人間がいたとしても、頭から否定するのではなく、相手のことをちゃんと尊重し、理解してみようという和の心を持って、そして納得いくまで議論をすることが尊いのだよ、という教えだとぼくは思う。
今の日本人にそれが出来ているだろうか?
自分を曲げずにしかし出来得る限り歩み寄ることも大事だよ、と聖徳太子は説いている。
ぼくは、自分が争いに向かおうとしている時、自分を諫めるために、よくこの言葉を口にする。
どこか、着物に腕を通す瞬間の本質に近い気がしてならない。