JINSEI STORIES
滞仏日記「死にたいと思ってもいい。でも、死ぬな」 Posted on 2020/12/03 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、なんか、言いたいことがあるんだろうな、というのが分かった。
ずっと一緒に暮らしているので、この子が何を考えているのか、佇まいとか、態度とか、視線とか、もっと言えば食卓に着くまでの歩き方でわかる。
おや、なんか、言いたいことがあるな。
でも、うかつに聞くとひねくれものなので、不意に不機嫌になってしまう。
そこは思春期の青年だし、二人暮らしの難しいところでもある。
なので、息子が語り出すまで待つしかない。息子の箸が何度か、止まる。でも、また動き出す。
口の中にご飯を放り込んで、どこか遠くを見ながら噛んでいる。
やっぱ、なんか言いたいみたいだ。
ぼくは息子に気を使って生きているけれど、「親子というものはそういうものです」と読者の皆さんがツイッターへの返信でエールを送ってくださるので、最近、息子が返事をしなくても、特に気にならなく、というか、気にしないでいいのだな、と思えるようになってきた。
むしろこの関係は順調な証拠、と考えて、無言の食事時間でも、一緒に食べれることは有難いことだ、と思って過ごすようにしている。
しかし、今日は、何か言いたげな気配があった。ぴりぴりしていた。
別に、言いたきゃ、言ってこいよ。
案の定、食べ終わろうかという頃に、二言三言、やり取りがはじまった。
「あのね、リサとロベルトから、最近、よく電話がかかってくるんだけど、知ってた?」
リサとロベルトは息子の親友アレクサンドル君のご両親で、息子にとってはフランスにおける親戚のおじさん、おばさん。というか、もう家族も同然の存在である。
「ぼくを心配してくれるのはわかるんだけどさ、ほんと、嫌なんだよね」
息子が吐き捨てた。どうやら、言いたいことは、このことらしい…。
ぼくは黙って聞いていた。ある程度吐き出させた方がいいようだった。
「毎日、交代で電話がかかって来て、数学をとるように、と言われる。パパから言って貰いたい。心配しないでくれ、と伝えて貰えない? ぼく、誰にも心配されたくないんだ。これはぼくの人生だから、誰からも忠告を受けたくない。わかる?」
夕方、生徒指導のレテシア先生から「数学の補修を彼が選択しないみたいですが、よく話し合われた結果でしょうか」とのメールが届いていた。
息子は法学の道を選んだので、数学を放棄したが、銀行員のロベルトの心配は「法学の道が全部閉ざされた時に、数学を選択してないと道を断たれる。数学をとっておけば経済の学校にシフトする手もある。経済も難しいけど、選択肢が法律より広い。もしものことを考えておくべきだ」であった。
息子は法律のかなり上の学校を目指すと宣言したのだけど、正直、学校の先生たちもリサもロベルトも、周囲のフランス人たちは全員、そこに入るのは無理だろうと思っている。
でも、なぜか彼はやる気になっている。さて、どうしたものか。
「パパ、ぼくは自信があるし、パパにこの前説明したように、もう決断したんだ。数学をとるのはいいけど、得意じゃないもののために、しかも試験に出ない科目を勉強するために無駄な時間を使うより、法律大学へ入るための専門の勉強をした方がいいと思わない?」
ぼくは、その通りだと思ったので、頷いておいた。
「だから、リサとロベルトに、もう電話しないで、と言った。余計な心配はいらないって、はっきりと言っておいた」
「なるほど」
「ぼくは誰にも心配されないで、今までたった一人で生きてきた。これからも一人で生きて行く自信がある。一人でやってきたんだ、一人で出来るよ」
思わぬ、彼の心の声を聞けたことで、ぼくはちょっとびっくりした。
その一人、という表現の中に、父親であるぼくもいないような気がしたからだ。
この子は小学校の2年生くらいまで、仏語をはじめ言葉をほぼ喋らない子で、学校に何度も呼び出され、一度病院に連れて生きなさい、と言われたことがあった。
彼の中で、日本語と仏語の切り替えがなかなかできなかったのだ。親が日本人だから、言語獲得が大変なのは当然だった。
でも、3年生になったある日、突然、日仏両方の言葉が、湯水が溢れるように彼の口から飛び出してきた。
すべてが独学だった。たしかに一人で頑張ったのは事実だ。
「しかし、一人で生きてきた、は言いすぎだよ」
とぼくは言った。
「今、お前がこの川で溺れているとする。見ろ、激流だ」
ぼくは2人の間に、見えない流れの早い川を描いてみせた。息子がその流れをじっと、でも、不服そうに、見ている。
「川岸に人がいるけど、怖いから、誰も飛び込んでお前を助けない。でも、ロベルトは飛び込んでお前を助けに行く。血は繋がってないけど、わかるだろ? ロベルトは絶対お前を見捨てない。ロベルトやリサはお前の親も同然だ。一人で生きてきたとか言うな。それは自惚れだ。支えてくれている人間に対して、言っちゃいけない言葉だ」
息子が、躊躇った後、小さく頷いた。言い過ぎたことが分かったのだろう。
ぼくは再び、料理に箸をつけた。もう、すっかり冷めて美味しくはなかったけれど、残すのが嫌いなのだ。
「お前は決して一人じゃない」
「分かってる。そういう意味じゃないんだけどな」
「今、フランスで自殺をする若者が増えてるの知ってる?」
「日本だって、毎月、2千人からの人が自ら命を絶ってる」
「コロナのせいなんだよ。親の仕事がなくなり、お金がなくなって、思うような未来が描けなくなり、学校に来なくなり、たぶん不安の中で、一人、誰にも相談できなくて、死んでいくんだ。パパ、そういう時代なんだよ。きっとそれはフランスだけじゃなく、世界中がそういう状況にあると思う。ぼくら、希望がないんだ。わかる? もちろん、ぼくは恵まれているとは思うよ。パパのおかげで美味しいものも食べられる。学費も払って貰える。パパと二人きりの生活だけど、でも、周りに、もっと苦しい子がいて、死にそうだと相談をされたこともある」
「死にたいと思ったことあるの?」
「・・・・」
「別にいいけど」
「いや、ないよ。でも、周囲の子たちの中には厳しい子がたくさんいるということだよ。この世界のせいだ。大人たちは経済のことばっかりだし、未来が曇ってる」
「だったら、お前が変えろ」
「え?」
「お前、そう思うなら、法律の大学、本当に合格してみせろ」
「うん」
「ぐちゃぐちゃ、言うな。パパは信じてる。黙ってやれよ」
「・・・・」
「弁護士でも、政治家でもやれるものならやってみろよ。そして、世界中で苦しんでる人のために働け。うだうだ言わないで、お前が世界を変えろよ。お前が変えろ、わかったか、お前が変えるんだ」
息子は数秒、黙っていたけど、そうだね、と言って立ち上がった。
食器を掴んで、ご馳走さま、と言い残し食堂から離れていった。
でも、この子はきっと必死で生きる気がする。
死にたいと思ってもいい。でも、死ぬな。