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滞仏日記「やべー、気が緩み過ぎたパリで、大変なことが起こりつつある」 Posted on 2020/12/01 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、ライブに向けて、昼間はギターの練習をしている。
古い方のアパルトマンでは一度、下の階のムッシュにドアをノックされ、「ちょっと夜は演奏をやめて貰えないか」と叱られたことがあった。
で、新しいアパルトマンに越してからは、ここが友人のアパルトマンという理由もあって、なるべく音を出さないようにして過ごしてきたのだけど、長引くロックダウンのストレスからぼくは最近、つい、再び歌うようになった。
だって、ロックダウン中なのでスタジオにも行けないしさー、昔はよくセーヌ川で歌っていたけど、さすがにこの時期は難しいので、仕方なく小さくギターを弾くようになったのだけど、歌い出すと、つい気持ちよくなって、どんどん声が大きくなってしまうのである、ロッカーだから…。
「愛をください、うお~、うお~、愛をください、ずー、ずー、いえーーーえええーーーーーーーーーーーい」
なんか、久々にZOOを歌ったら、懐かしい記憶が蘇ってしまった。
バンダナを頭にまいて、ソファーに片足のっけて、ECHOES時代の真似しながら気持ちを込めまくってしまったのである。そしたら、
「ブーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」
と玄関のドアベルが鳴って、思わず我にかえった父ちゃんであった。



一階のインターホンじゃなく、この音は、家の玄関のベルである。
ぼくはギターを抱えたまま、恐る恐る、玄関の方を振り返った。
一枚のドアがあり、多分、その向こうに激怒したこの建物の住人が立っているはずだった。
「ぶーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」
やべー。
これはやべー。
なぜ、やばいかというと、ここはぼくの知人から借りている物件だからだ。
ぼくらの家は、日記にも書いてきた通り、水漏れで感電の可能性がある。ちょうど知人たちは仕事でパリを離れないとならない。ぼくらの家の事情を知った優しい知人が、不在のあいだ、ここを使えばいいよ、と格安で貸してくれた。
でも、頼むから近隣とは揉めないでくれたまえ、と言われていたのである。
下の階の老夫婦、めっちゃ性格が悪いらしく、知人のお子さんがちょっと家の中を走り回っただけで、怒鳴り込んできて、一度は警察を呼ばれたこともあった、とか。
通報されたことで、知人は激怒し、下の人とは長年もめている。
なんでも、この老夫婦は建物中の住人に恐れられている、とのことだった。くわばらくわばら。
ぼくも何度かその老夫婦と階段ですれ違ったことがある。陰険そうな怖い目で、じろじろっとしたから上まで舐めるように睨まれたことがあった。
どこの世界にもめんどくさい人はいる。できれば関わりたくないので、ぼくはギターを弾かないように、ずっと我慢をしてきたのだった。しかし、…。
しかし、長引くコロナのせいで、ぼくの我慢にも限界が…。



「ぶーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」
ぼくがビビッていると、またドアベルが鳴り響いた。
この執拗なドアベルの鳴らし方、下の老夫婦に間違いない。もしかしたら、すでに警官が一緒かもしれない。おーまいがっ。
ぼくはヤマハのギターを抱きしめたまま、あっちへ逃げたり、こっちへ逃げたりしたが、今まで歌っていたので、ここにいることはバレバレであった。
「愛をください~」
と思わず、か細い声が飛び出してしまった。
「ぶーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」
息子がいたら、代わりに謝ってもらうのだけど、彼は学校で不在、フランス語が話せないふりをしたらどうか、と悪知恵が働いた。
そーりー、あいきゃんすぴーくふれんちらんげっじ、うえる。
いかんいかん、今時のフランス人はぼくなんかよりも英語が上手なのだ。仕方ない、覚悟を決めて、ドアを開けた。すると、老夫婦ではなく、若いご夫婦が立っていた。
「あ、ごめんね、うるさかった?」

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「いえ、ぜんぜん、ぼくら音楽大好きですから」
とその若い二人が笑顔で言ったので、ぼくは脱力した。この二人はよく、階段ですれ違う、とっても感じのいいカップルなのである。
(ってか、日記にこんなこと書いたら、ここを貸してくれた知人にばれる。借りる時の約束で、このアパルトマンの写真だけはツイッターとかインスタに載せないように、とくぎを刺されていたので、ぼくがSNSをやってることは知ってる。間違いなく、読むはずだ。もう、読んでるかもしれない、今、読んでる? だったら、すまん、こういうことがあったんだけどね、えへへ…)
「そうなんですね、よかった。出来るだけ小さな音で弾くので許して」
「もちろんです。ぼくらは本当に大丈夫ですから。がんがん、やってください」
とムッシュの方が笑顔で、言ったのだ。
「マジか?」
「マジですよ、マジ」



すると隣にいた奥さんがぼくに
「実は、今日、友だちが打ちあわせに来るので騒がしいかもしれないんですけど、時期が時期だけに、通報とかされるといけないので、あ、でも、一応、仕事ですから、外出許可証の「お仕事」欄に印をつけて所持してきてもらいます。食事をしながらの、ディナー・ミーティングなんです。話し声とか聞こえるかもしれないので、ちょっと一言言っておいた方がいいかな、お隣だから、と思いまして、よろしいでしょうか? そのかわり、いくらギターを弾いても私たちは問題ないということで」
そういう、話しだった。普通、こういう時は張り紙とか郵便受けに手紙を入れるのがフランス流なのだけど、やはり、時期が時期だけに、直接、伝えて様子をみたかったのだろう。
ムッシュがジョセフ。マダムがマリアンヌ、という名であった。
「え? 仕事なんでしょ? 許可証、持ってるなら、問題ないでしょ。どうぞどうぞ、心置きなく打ち合わせやってください」



マクロン大統領がロックダウンの緩和を宣言した途端、パリジャンたちの気が緩みまくって、そこかしこで家呑みがはじまった。彼らも、仕事と称して、宴会をやるのかもしれない。
ま、でも、真面目そうな二人だから、大丈夫だろう、と思った。
ところが、食事をしながらのミーティングなんてとんでもない。パーティさながらの大騒ぎが始まったから、さあ、大変。
最初はおとなしく喋っていたのだけど、お酒が入ったらからか、声がだんだん大きくなっていった。お酒と感染拡大の関係がよくわかった。
中に感染者がいたら、クラスターになるじゃないか!
学校から戻ってきた息子が、
「パパ、警察に電話して」
と言い出した。
「マジか? 警察になんて言うんだ」
「その通りに話せばいい。ぼくが言ってもいいよ」
「ちょっとまて」



警察に通報する前に、何か出来る方法がないか、ぼくは頭をひねってみた。
いくらなんでも、ああやって挨拶に来てくれた人を警察につきだすことは出来ない。しかも、一応、仕事なのだ。でも、騒いでる。うーーーむ。
そこで、ぼくは意を決し、大人としての行動に出た。
ジョゼフとマリアンヌの部屋の前まで行き、呼び鈴を鳴らしたのである。かなり神経質な感じで、激しくだ!
かっこいい。
「ぶーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」
とドアベルが鳴り響いた。
次の瞬間、ぼくはダッシュで自分の家に逃げ込み、静かにドアを閉めた。
そして、覗き穴から外の様子を見た。えへへ、かっこわりィ。
「何やってんの?」
と息子が背後で言った。
慌てて振り返り、しーーーー、と指を唇に押し当てた。
すると、まもなく、騒ぎの音が鳴りやんだ。ほら、みろ。
そして、隣の家のドアが開き、中からジョゼフが顔を出した。そこには誰もいない。
マリアンヌも出てきて、一度、うちの前まで来たけど、肩を竦めて、違うみたい、とジェスチャーをジョゼフに返した。
二人は階下を暫くのあいだ、じっと覗き込んでいた。あの老夫婦、この建物の住人たちに恐れられている、えへへ…。
下の階の老夫婦のせいにする作戦は成功したようだ。
若者たちの宴会はそこで終了となり、若い子たちが三々五々、忍び足で帰って行った。

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