JINSEI STORIES
滞仏日記「息子の夜食を作りながら、ぼくの中の母親心がさく裂する」 Posted on 2020/11/23 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、寝ていたら、ドアベルが鳴ったので、こんな時間に誰だろうと思って、覗き穴から覗いてみると、驚いたことにミックだった。
どうしたの? とドア越しに問うと「手伝いに来た」というので、慌ててドアを開けると、彼の後ろに若いのが二人いて、なぜか、マスクも付けずみんな笑顔だった。
「JINSEI、一人じゃ楽器運ぶの大変だろうと思ってさ、こいつらに手伝わせるから、運ぶよ、会場まで」
ミックはぼくのことをJINSEIと呼ぶ。そうか、今日はオーチャードホールでライブだったっけ、助かった。
ギターを三本使うからどうやって運ぼうか、昨日、悩んでいたのだ。
「JINSEI、ライブがうまくいくように、これ、お守り」
三人がぼくに一つずつお守りをくれた。コインに何か木の枝のようなものが巻き付けられたもので、奇妙だった。そしたら、ふと思い出した。ミック、そうだ、あんた…。
「ミック、あんた、死んだんじゃなかったっけ?」
ミックが悲しそうな顔をした。
「JINSEI、残念だな、天使になれたのに」
そこで、目が覚めてしまった。
ミックはミックジャガーにそっくりだから付けられたあだ名で、彼は同じ事務所だったブルーハーツやECHOESのコンサート制作をしていた。
大好きな人だったけど、10年以上前に亡くなった。
それ以降、ぼくはずっと彼のことを思いださなかった。なのに、なんで、急に?
あのまま、着いて行ってたら、ぼくはこの世界から離れていたのかな、と思った。
「ミック、ぼくはまだ死ぬわけにはいかなんだよ。でも、お守り、ありがとう。歌い続けるよ、ぼくは」
実は、そんな朝のはじまりだった。
しかし、日曜日になるとどうしても動けなくなるのは人間だからだと思う。
家事は待ったなし、終わりはなく、祭日も日曜日もあんまり関係ない。
なぜなら、日曜日でもみんな腹は減るし、風呂にも入るし、動けば家は当然散らかるし、喉が渇けばコップも使うし、何より、生活は続く。
そのしわ寄せは世界中の主婦(主夫)へと押し寄せる。
今日はミックのせいで、ちょっと浮世離れをしたスタートになった。
昼は行きつけのカフェが牡蠣バーをはじめていたので、それを買って、息子と食べたのだけど、食器を片付けないで席を立った息子にカチン、…。
「なんで片づけないとや~」
と当たり散らした。
当たるつもりもなかったけど、思えばぼくはずっと仕事と家事の繰り返し(計算をしたら、連載など毎日、1~2万字は書いている)、ので休めない苛立ちから、その矛先は必然的に同居人へと向かう。
16歳の同居人も辛かろう。
彼だって受験勉強があるので、洗濯くらい手伝ってやりたいけど、ぼくも手一杯で、そういう取り決めをしてから、息子も自分のことは全部自分でやるようになった。
風呂場の隅っこにある、息子専用の洗濯籠からパンツとかTシャツが溢れて床に落ちて、そこはトイレを兼ねる場所だから、清潔ではないし、見るも無残なのだけど、ぼくはいつも見て見ぬふりをしてしまう。見て見ぬふりだ。
たまに、深夜に洗濯機が回っているので、勉強をする傍ら、洗濯をしているのだろう。
同年代の頃の自分は母親が何もかもやってくれていた。でも、もう若くないぼくに出来ることに限界もあり、受験生であろうと関係ない。
甘やかしてやりたいけど、普通の家庭じゃないので、出来る限りのことは自力でやってもらうしかない。
とはいいつつ、本当に受験勉強をしているか、気になるので、時々、こっそりと部屋を覗きにいく。
息子はなぜか、(寂しがり屋だからか)、ドアはいつも開け放たれていて、閉まっていることは滅多にない。
こっそり覗くと、やはり、勉強をしていた。
昨夜は深夜にトイレに起きたら、彼の部屋から英語の朗読が聞こえてきた。
そういう時はさすがにぼくの中の母親心がさく裂して、おにぎりとかサンドイッチを夜食用に拵えてしまう。自分がそうしてもらっていたことを思い出しながら、…。
そっと、ドアの前に置いといてやる。
お腹すくだろう、まだ高校生なのだから。
ところが、今日は日曜日だ、調子が出ない。
最近はじめた「地球カレッジ」などZOOMで多くの人に見られる仕事の時とかは、シャワーを浴び、身なりを整え、それなりにビシッと決めて頑張ってはいるのだけど、普段は酷いものである。
髪の毛はずっと寝ぐせのままだし、上下スエットのままで一日、家の中でごろごろ。
誰にも、お見せ出来ない。インスタにアップしてる自撮り写真は最後の抵抗とでもいうべき願望が生み出した瞬間幻想である。
いつか、そういう酷い恰好の自分もインスタや日記にあげなきゃ、とは思っているが、いやはや、あまりに見苦しすぎて、無理かなぁ。天使にはなれない。
牛のさがり肉を醤油麹に漬けてから、散歩に出た。
今日は、玄米のごはん、焼き肉、野菜カレー添え、にすることにした。
カレーはやる気が出ない時の、主夫の強い味方である。
ザクザクと野菜を切って、ちょっと煮込んだら、もう完成…。
夕暮れ時、パリの中心部を歩きながら、なんでこんな世界になったのだろう、と考えた。
すれ違う人はみんなジャンパーのポケットに手を入れて、マスクをしている。
セーヌ川を渡って、コンコルド広場に出た。陽の沈む方角を眺めていたら、見覚えのある三人組が広場を横断していく。
あれ、と思った。ぼくはびっくりして、思わず目を手の甲で擦ってしまった。
ギターを抱えた3人組が停車しているギンガムと描かれたトラックに楽器を積み込んでいるのだ。そして、指示しているのは、あの男、…。
「ミッーーーック!」
ぼくは叫んだ。広場を渡ろうとしたけれど、交通量が多くて、渡れなかった。
太陽が凱旋門の向こう側に、沈んでいく。横殴りの強い光りがぼくの目を焦がした。
「ミック!」
あのトラックは見覚えがあった。不意にぼくは泣きそうになった。
彼らは楽器を積み込むと、笑いながら、トラックに乗り込み、走り出してしまったのだ。トラックは、沈む夕陽に向かって速度を上げて、最後は光りと同化し、わからなくなった。
「JINSEI、残念だな、天使になれたのに」
ミックの声が耳奥でもう一度弾けて、消えた。