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滞仏日記「身の危険を感じた父ちゃん、マトリョーシカ大作戦」 Posted on 2020/11/10 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、「おはよう」と言ったのだけど、返事なし。
安定の、カッチーーーン、で始まった、月曜日の朝。
「今日は、夕方まで向こう(古いアパルトマン)に工事が入るから、パパ、いないからね。ランチは自分で作って食べといて」
返事なし。
「聞こえとっと?」
返事なし。
機嫌のいい時と悪い時があまりに落差があるのだけど、そういうものなのだろうか? 
時々だけど、心配になる。
なんか病とか患ってないか、差別にあってないか、…。
朝はだいたい98%の割合で機嫌が悪いのだから、マジ、疲れる…。
「いってらっしゃい」
返事なし、からのドアが閉まる音、バタン。
やれやれ、怒る気にもなれんわ。



古いアパルトマン、朝の9時に工事の業者さんがやって来て、窓を取り換え始めた。
どうも話す言語から、この二人、ロシア人のようである。
ボスらしき方のフランス語がぼくと同レベル、もう一人はぜんぜん話せない。まだフランスに来たばかりに違いない。
ぼくの知ってるロシア語は「スパシーバ(ありがとう)」のみ。
これだけで、彼らとコミュニケーション出来るかな。

滞仏日記「身の危険を感じた父ちゃん、マトリョーシカ大作戦」



5か所の水漏れはそのままなのに、なぜか5枚の窓を交換するというのだから、フランス人大家、ぜんぜん意味が分からない。
窓に関しては不自由していないのに、優先順位が違うだろ、水漏れのせいで、ぼくらはここで生活出来ないというのに…、大家メ。
ロシア人は2人とも2メートル級の身長とレスラーのようなごっつい体格。
ぼくはと言えば、若くないうえに、ロン毛でしかも小さくてか細いし、声が甲高いから、もしかするとおじさんじゃなく、おばさんと勘違いされているかもしれないな、と心配になる。
この二人に襲われたら、一発でノックアウトだ、と思って、びびった父ちゃん。

滞仏日記「身の危険を感じた父ちゃん、マトリョーシカ大作戦」



自分は敵じゃない、と伝えておいた方がいいだろう、と思って、
「コーヒーとか飲まれますかぁ?」
と作業中の二人に近づき聞いたが、返事なし、こわッ。
「水とか、必要なら言ってくださいね。ありますからねー」
シーン、返事なし。
息子が返事しないどころのレベルじゃない。
聞こえてないのかもしれない、と思って、ちょっと大きな声で、
「コーシー?」
と声を振り絞ってみたら、ちょっとフランス語を話す方がこちらを振り返り睨まれた。
思わず、目を見開き、後ずさりする父ちゃん…。
「あの、お仕事中、すいません。コーヒーとかいりませんか?」
小さな声で訴えてみたら、ボスの方に見下ろされてしまう。
ぎょえ~、襲われる、と思って、おしっこちびりそうになった父ちゃん。
ロン毛だし、やはり女性と勘違いされてるかも、と思って、負けずに背筋を伸ばして、対抗心露わに、侍ジャパンと心で唱えながら、胸を張ってみたのだけど、ぼくの視線は彼の臍の辺りを彷徨うばかり、顔はどこや、と見上げたら、天井の方で鋭い眼光がギラっと輝いていて、ああ、やばい…。
これ、ぼく差別してるつもりなんかないのだけど、相手があまりに凄すぎて、恐怖を感じるのだから、こればっかは仕方がない。
誰のせいでもないけど、怖いのだ、ごめんなさい。
いろいろとよからぬことを想像してしまい、動けなくなってしまった、父ちゃん。
すると、ボスらしき方が、
「コーヒーはのまない。アールグレーなら飲む」
と言ったので、不意に力が抜けて、
「アールグレーすね? わかりやした。お待ちください」
と言って、そのまま後ずさりしながら、キッチンに逃げ帰った父ちゃん…、しかし、である。
アールグレーがない、見当たらない、絶体絶命なのだ。
キッチンの乾物棚を必死で探すのだけど、やはり、アールグレイ切らしている。
なんで、アールグレイなんだよ、と泣きそうになっていたら、おお、凄いの発見!
ロシアティーだ!!!
しかも、プーチン大統領のマトリョーシュカまで出てきた。

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2017年に、息子と二人でモスクワに行った時に買ったマトリョーシュカだった。
ということはこのロシアティはその時に購入したものであろう。
RUSSEというのはロシアのことだけど、変だな、他がフランス語になってる。
これ、本当にロシアティーなん? 
モスクワで買ったものか、不安になってきた。
ええええ~い、悩んでも仕方ない。当たって砕けろじゃあ、と思い直し、淹れてみた。
3年も前のロシアティだけど、味見をすると美味しかった。
恐る恐る、寝室に戻り、
「すいません」
と作業をする二人の背中に向かって声をかけたのだけど、やはり、返事なし。
敵ではないことをさりげなく知らせるために、本棚の、彼らの目の高さに、プーチン大統領のマトリョーシュカを置いた父ちゃんだった。
しかも、中から入れ子人形を全部出して、並べて…
「あの!」
勇気を振り絞って彼らを呼んでみた。
「アールグレーがなくて、ロシアティーならありました!」
返事なし!!!
どうしたらいいか分からず突っ立っていると、仏語を一切喋らない方が、こちらを振り返って、何してんだよ、そこで、という感じで睨んできた。睨まないで、お願い…!
ボスも気がつき、二人でこちらを振り返った。
「プーチン」
思わず、変な単語がぼくの口から飛び出してしまったよ。やばすぎるじゃん…。

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6枚の窓を全部換えるのに、まる一日かかるということだった。
うちのアパルトマンは120年も前の建物で、窓の上部には丸みがあり、この形の窓を特注するだけで数万ユーロもする。
窓ガラスはベルサイユ宮殿にもあった昔の手作りのイタリアンガラスで、とっても薄い。
なので、今回は現代的な窓に交換するのだそうで、気に入っていた窓が普通の二重窓になってしまう寂しさがあった。

滞仏日記「身の危険を感じた父ちゃん、マトリョーシカ大作戦」



それにしても、ロシア人職人たちの腕前は驚くほどに正確で、しかも思ったよりも作業が素早かった。
よく働く、素晴らしい技術であった。
半日ほど一緒にいたので、だんだんと彼らは無口なだけで、そんなに怖い人たちじゃないことに気がついてきた。
これは一種の偏見というものだ、と自分に言い聞かせ、深く反省をした。
笑顔を向ければ絶対に笑顔が帰ってくるはずだ。
それが人間というものじゃないか、と父ちゃんは自分に言い聞かせた。
それで夕方、もう一度ロシアティを淹れて差し入れてみた。
マグカップを差し出しながら、満面の笑顔を向けてみたというのに、…やはり、返事なし。
笑顔に笑顔が戻ってこなかった。目の前、真っ白。
そこで、気がついたことがあった。
もしかしたら、彼らはロシア人じゃないのかもしれない。
慌ててネットで調べたところ、ロシア以外にもロシア語を話す国がいっぱいあった。
ベラルーシ、ウクライナ、グルジア、 アルメニア、カザフスタン、 ウズベキスタン、 トルクメニスタン 、キルギス、タジキスタンなどなど…。
ウクライナって、ロシアと紛争してたんじゃなかったっけ、クリミア半島の併合で、…。
本棚のプーチン大統領のマトリョーシュカと目が合った。
これ、やばくない?
そっと手を伸ばし、プーチン大統領を鷲掴みにし、素早くポケットの中にしまった父ちゃん…。
いやはや、それにしても、長い一日であった。
 

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※左から、プーチン大統領、エリツィン、ゴルバチョフ、スターリン、そして一番小さいのがレーニン。

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