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滞仏日記「いよいよ決戦の日、息子よ、いいか、よく聞け!」 Posted on 2020/11/06 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、ぼくは今日、息子と向かいあった。
「学校を変える」と言い出した息子を説得する気持ちはもうぼくにはなかった。
ぼくが今日、彼に突き付けたメッセージはものすごくシンプルなものであった。
「音楽をやるなら大学に行く意味はないので、高校出たら、音楽の世界ですぐに働きなさい。ただ、これからはどこも不景気なので、仕事はないよ。脅かすわけじゃないけど、定収入がなければ家族も養えないし、老後もかなり悲惨になるけど、いいんだね。年金もゼロだ」
これはある意味で、本当のことであり、脅かしだった。
それでもやる、と言ったら、自分もそうして生きてきたので、応援するつもりだった。
ところが、息子は小さな声でこう反論をしたのである。
「パパはフランスで生まれてもないし、育ってもない」
いきなりのカッチーーーーンだったが、想定内であった。



「だから?」
「だから、何も背景が分かってない。全く、外国人の意見なんだよ」
「背景が分かってない? どういう背景?」
「仕事はあるし、音楽大学に行くことも大事だってこと。パパは発想が超古い」
カッチーーーーン。しかし、想定内、想定内…。
「背景ならあるよ。パパはプロのミュージシャンで、お前よりもずっと経験がある。今、パパの仲間のミュージシャンたちは日本人もフランス人もみんなライブが出来なくて物凄く苦しんでる。イベンターもレコード会社の人も全員だよ」
「一時的だよ」
「いいや、コロナになる前から、音楽では生計がたてられなくなってる」
「それは違うよ。ぼくは裏方になりたいんだ。映画音楽とかゲーム音楽なんかを作る仕事で、そういう会社に勤める」
「それはいいアイデアだけど、そこには同じ発想の連中がわんさか押し寄せる。楽譜が読めて、楽器が弾けて、その上で作曲が出来る音楽的知識が必要で、君のようにパソコンで好きな音楽を作るような素人を雇う会社なんかない」
「だから、パパはフランスの音楽事情を分かってない。背景を知らな過ぎるんだって。だいたい、パパ、フランスでやったことないでしょ? 稼いだことあるの?」
カッチーーーーン。想定内、想定内、ぐっと我慢した。
今日は怒っちゃだめだ、と自分に言い聞かせながら…。
「あのね、屁理屈はどうでもいいよ。好きなことだけやって生きて行ける時代じゃないことはお前よりも知ってる。その上でコロナだ。コンサートも出来ないし、CDも売れない。いったいどうやって音楽で生計をたてて、家族を養っていくんだよ? 」



息子は黙ってうつむいた。ぼくは作戦を変えることにした。
こういう屁理屈で言い合ってもらちが明かない。
だいたい、この子はぼくの意見を聞かないのだから、この子が頭の上がらない人から意見を言ってもらうのが一番効果的だと思った。
「じゃあ、分かった。フランソワーズ先生のメアドを教えてもらえる?」
息子が動揺したのが伝わってきた。
フランソワーズは彼の担任で、泣く子も黙る学校一怖い英語の先生であった。
講堂で行われた親のための説明会の時、一番後ろで聞いていたぼくを含む数名を指さして、そんな端っこで聞いているのは真剣度が足りない、そんなことで子供を導けるのか、前の席があいてるでしょ、と怒られた経験がある。
親をも罵倒する「鬼フラ」こと、鬼のフランソワーズ。鬼フラと名付けたのは父ちゃんだった。えへへ。



息子は外面がいいので、先生たちには可愛がられている。とくに「鬼フラ」に。
彼女に問い詰められたら、意見を変える可能性がある。
それでも音楽をやると言ったら、ぼくは許可するつもりだ。ただ反対をするわけじゃない。どれだけやる気があるのかを試さないとならない。
これは親の一番大切な仕事でもある。
「鬼フラに何を言うの?」
「全部、正直に話す。お前が学校を変えたいと言ってること。音楽で生計を立てたいと言い出したこと」
「殺されちゃうよ」
「殺されてもやりたい仕事なんだろ?」
「あの人はぼくのことを裏切り者と罵るだろうね」
「知ったこっちゃないだろ。誰の人生だよ? でも、それくらい、彼女が君に信頼を寄せている証拠なんじゃないの? 一度、先生と真剣に話し合ってみなさい。少なくとも鬼フラは担任なんだから」
息子は再びうつむいてしまった。



「調べたけど、音楽大学に行くには楽譜もそうだけど、数学もやらないと入れない。数学を選択してない君はその段階で合格できない。知ってた?」
息子はうつむいたままだった。
「パパには背景がないかもしれないけど、お前は考えがもっと甘すぎる。自分が好きなものだけをやって生きていけるわけがないのは当然だろ。だったらみんなミュージシャンになってるんじゃないの?」
息子はうつむいたままだった。それでもやるんだ、と食って掛かってきたら、許すつもりだった。
「鬼フラに今夜メールをするから、彼女と話し合ってごらん」
ぼくの話しはそこで終わりにした。
うつむく息子を残して夕食の準備をするためにキッチンにこもった。ま、しょうがない。たまには厳しく言わないと、これは息子の一生の問題だからである。



夕食後、ぼくは辞書を片手にフランソワーズ先生にメールを書いていた。22時過ぎ、息子が仕事場のドアをノックした。
「パパ、来年のフランス語のバカロレア(高校卒業資格試験)がなくなった。コロナのせいで」
「マジか?」
「今、流れたニュースだよ。驚いた」
「じゃあ、どうなるの?」
「これまでの成績で判断されるみたいだね。まだ詳しいことは分かってないけど…」
息子は再来年、受験であった。
「地道に頑張っている者には関係ない。お前も地道に頑張れ」
「あのね、先生に手紙書いたの?」
「今、書いてるよ」
「パパ、音楽の学校はやめて、法律の大学かジャーナリストの専門学校に進むことにする」
「え?」
フランスの専門学校は大学と同じような扱いである。
「なんで、急に考えを変えたの?」
「よく考えたから」
やっぱり、この程度の甘ちゃんであった。
厳しくしといてよかった。
この程度のやる気じゃ、音楽では食べていけない。
もちろん、法律だって同じだ。
でも大学には進んでおいて損はない。
「分かった。でも、フランソワーズにはメールを送る。なぜなら、パパはこの国の背景がないからだ。背景がないので、お前を導けないみたいだから、担任と相談をし、彼女から直接君にアドバイスをしてもらう」
「え? もう、音楽の大学にはいかないのに?」
「それはよかったけど、パパはお前が数学を選択しないでいいのか判断が出来ない。調べたらオプションで数学を習うことが可能だって書いてあった。やっといたほうがいい」
「そんな時間ないよ」
「時間は作るものだ。音楽の道に進まないなら、暫く音楽やる時間は制限する。いいか、お前は受験生なんだ、今頑張らないでいつ頑張るんだよ。世界はコロナだテロだというけど、受験生には関係ない。数学や英語をきちんとやることが大事だってみなちゃんも言ってた」
「みなちゃんに相談したの?」
「したよ。リサにもロベルトにも相談した。でも一番相談をしないとならないのはフランスの教育や将来のことを誰よりも知っている担任だからね。フランソワーズにメールを送る。送ると言ったら送ってやる!」
「やめてよ」
「なんで? パパには背景がないんだから、送るよ」
「そうじゃないよ。パパのフランス語がでたらめで恥ずかしいから送らないでってことだよ。自分で言いに行くからさ」
「え? そこか」
カッチーーーーン。想定外であった!

滞仏日記「いよいよ決戦の日、息子よ、いいか、よく聞け!」

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