JINSEI STORIES
自主隔離日記「母さん、85歳、“私どんどん元気になって困っとったい”」 Posted on 2020/10/15 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、眠れず朝になり、やることもないし気になっていたので、福岡済生会病院の大倉先生に、お元気ですか、とSMS送ったら、あら、今、目の前にお母さん診察にいらしてますよ、と返事が返ってきた。月に一度の検診日のようで、
「何たる偶然、素晴らしい」
と戻ってきた。
弟に電話をしたら、お袋を送って病院近くでガソリン入れてる、とのことだった。
ぼくの実家周辺はなんとか無事みたいである。
夜、改めて母さんに電話をしてみた。
「あらぁ、おにいちゃん、今、日本なのね?」
知ってる癖に、一応、驚いて見せるところが、母さんのいいところ。
ハキハキした口調なので、元気そうである。
「私はね、目の手術も成功して、おかげさまで」
と言い出した。
「でも、85にもなってどんどん元気になっていきよる。困っとったい」
相変わらず変な言い方だけど、みんなに迷惑をかけるね、と言いたいのであろう。
「そっちは大丈夫?」
「なんも、ぜんぶ、恒久がやってくれるけん、ごはんも、買い物も、極楽です」
「それはよかった」
「あんたたちは元気なの? 菌は大丈夫?」
「きん? きんって何?」
「ほら、舶来の菌ったい、猛威ばふるっとろうが、欧州で」
「ああ、だから、新型コロナウイルスね」
「新型かどうか知らんけど、菌に新型があるとやろか」
「ウイルスです」
あはは、と笑いあった。長閑だ。
「でもあんた、出入りしよるならいいったいね」
意味が分からない。出入り? なんのこと?
「出入りしてるから、今、東京におっとやろ?」
ああ、出入国のことだ。そうそう、おかげさまで、入れたよ。
「でも、隔離やろ、今。外に出られんとでしょうが、退屈ったいね」
「仕方ないね。母さんも出ちゃだめだよ。菌がうようよいるでしょうから」
「ウイルスね」
カッチーーーーーン。
「でもね、福岡にはあんまり菌がいないけんね。福岡より、北九州とかほうぼうにおるみたいやね」
「そうなんだ、北九州、心配だね」
うんうん、と頷いている。で、何を思ったのか、こう言った。
「うちの近くにはおらっさんとよ」
ぼくはその変な言い方でまた噴き出してしまう。あはは。
「母さん、コロナは見えないから、いると思うよ。だから、用心してね」
「うちの近くにはおらん」
「はいはい。おらんね。おらんことにしときましょう。ところで、運動とかしてるの?」
「毎日、ベランダを3キロくらい歩いてるとよ」
まるでベルサイユ宮殿に住んでるみたいな言い方だが、実家は確かにベランダがちょっとだけ広い。
家は普通なのだけど、ベランダがマンションの共有スペースになっているので、そこに出入りできるのはうちだけ。
自分の庭には出来ないけど、ラッキーなことに空間だけはある。
どうやら母さんはそこで毎日、ウオーキングをしているようだ。それは良かった。
「いいね」
「オモトの花が咲いたとよ」
「オモト? なに?」
「オモトを知らんとか?」
「うちにはオモトの鉢植えが30鉢ほどあるとよ」
「そんなに? 知らなかった」
「それがこの時期、一斉に花を咲かせるったい。恒ちゃん、おにいちゃんに写真ばおくってやって」
そこで、一度、弟がオモトの花を送ってきた。
どうやら弟の説明だと正確にはオモトじゃないようで、眉刷毛万年青(まゆはけおもと)と言うらしい。
ネットで調べたところ、オモトに似た葉っぱをつける球根植物だそうだ。詳しくは分からない。ごめんなさい。
「なんで、今まで、オモトのこと知らなかったのかな」
「青二才っちゅうこったい。長生きするといろんなことを学べるから、それが生きる醍醐味ったいね」
また、名言をはいた。
「うちのオモトが77本のまるくて見事な花を咲かせたったいね。きれいかろ?」
「うん」
「あんまりに綺麗かけんね、NHKに電話して、ニュースで放送してもらおうと思って、受話器を掴んだところで、恒ちゃんに見つかって叱られたとよ」
「え?」
「そんなことしたら恥ずかしいからって」
あはは、和んだ。
「そうだね、やめときましょう」
「でもね、77本も花が咲いたとよ。福岡の方々に見せたくないですか?」
「その気持ちだけでいいと思うよ」
ぼくが日記でこっそりとお見せしようと思った。それがいい。母さん自慢のオモトの花、これはこの時期にしか花を咲かせない。ぼくは今朝、たまたま大倉先生にメッセージ送ったことで、この植物の存在を知ることが出来た。
これこそ素晴らし偶然である。
「博多に来るとか?」
「いや、いかん。陰性だけど、ぼくが東京で罹ってたら母さんにうつすし。暫くは恒久に任せる」
「大倉先生は来ると言っとったけど、私は来んと思ってた。それがよか」
「あと二年くらいしたら、収まると思うよ」
「二年もか、生きとらんかもしれんね」
「大丈夫でしょ。どんどん元気になってるんだから」
あはは、と笑いあった。
「あの舶来の菌、しゃからしかね」
電話を切った後、弟から「12月になるときれいな赤い実を付ける」と写真が送られてきた。毎年、大きなまるい花を咲かせ、実をつけ、その度に、母さんを喜ばせているのだ、と思うと、オモトさんに感謝であった。
こうやって静かに福岡でも、時は流れているのだ。
今を大切に生きたい。