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滞仏日記「彼女はぼくを一度も愛したことがなかった」 Posted on 2020/10/07 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、今日は、ちょっと切ない話しだ。そういう話しになるとは思わないで、引っ越した先で見つけた新しいカフェのテラスで本を読みながら、カフェオレを飲んでいた。
すると偶然にも、斜め前の席に顔見知りが座った。クリストフの店でも、エルベの店でも、ロマンのバーでもたまに一緒になる紳士で、年齢は不詳だが、職業はジャーナリストだと聞いたことがある。
どういうジャーナリストかは知らない。
でも、なんでもよく知っている男で、お母さんが微生物学者だからか、コロナに関してはぼくなんかよりもずっと詳しい。
「あれ、こんなところで、久しぶりだね」
ブノワがぼくの方に身体を向けて言った。
ぼくは読みかけの本を置いて、おや、ボンジュール、と戻した。
午前中は降っていたので、どんよりと暗い。
バーが新しい法令で閉鎖になったのでつまらない、とブノワが言った。
その時、息子が目の前を過って、ぼくに気が付き、あっという顔をした。



息子は昼食をとりに一度帰ってくる。
自分で何か作って勝手に食べて再び学校に戻る。
給食が不味くて耐えられないし給食費の無駄だから家で食べる、と偉そうに主張し、わざわざ毎日二往復しているのである。
ブノワに紹介をした。立ち去る息子の背中に向かって、日本語で、
「卵焼きは作ってあるから、食べていいよ!」
と叫んだ。息子が振り返って、ありがと、と言った。息子が視界から消えるとブノワが、
「かわいい子だね」
と言った。
「自分でなんか作って食べてまた学校に戻る。給食を選ばないのは自分の理由だから、ぼくは彼のために一切作らない」
と説明した。
「ぼくらは事情があって、父と息子の、二人暮らしなんだ」
ブノワは笑顔を崩さず、
「まあ、いいんじゃないの。息子君、立派だ」
と言った。それ以上のことはぼくも言わなかったし、彼も聞かなかった。ただ、
「ぼくは生まれた時、Xという名前だった」
と言い出した。



「本当の両親を知らないんだ。多分、褐色の肌をしているから、モロッコとかアルジェリアとかあっちかな。どこかで生きていると思うけど、何もわからない。ぼくはパリで生まれ、0歳の時に、今の親に引き取られ、1歳の時に彼らの戸籍に入った。前にも話したことがあると思うけど、ぼくの母親は微生物学者で、もう引退して父親と郊外で暮らしている。ぼくの本当の両親はぼくが生まれる前に、ぼくを育てることが出来ない、という意思を政府に伝え、ぼくは最初から養子になる運命のもと生まれることになる。養子縁組協会によってぼくはsousX(スージックス)という名前で扱われた。(Xという名のもとで生まれたという意味) 子供を育てたい様々な理由の人がこの協会に登録している。でも、そういう子がばんばん生まれることはないので、長い順番を待たないとならない。ぼくの場合、父親が子供を望んだ。母は望まなかった。二人はベトナムや韓国にまで探しに出かけている。でも、結局、フランスで命を宿したぼくの情報が父と母のもとに届けられ、ぼくは出産と同時に、彼らの子となった。審査はかなり厳しく、ぼくを育てられるかどうか、政府が調査をする。年収、環境、社会性、などがあるか徹底的な調査を受けたみたいだ。その後、一年間、暴力がないか、親としてきちんとしているか、追跡調査があって、ようやく戸籍に入れて貰える。ぼくがXから離れる時、両親はぼくにブノワという名前をつけた。父親には愛されてね、レストランに連れていかれたり、一緒に旅をしたり、スポーツをやった。だから、今も仲がいい。でも、母さんはそうじゃなかった。彼女はぼくを一度も愛したことがない」



フランスは養子縁組で育てられた子供が多い。
カトリックの国だからであろう、日本とは比較にならないほど、養子の子がいる。
肌の色が明らかに違う両親と子供…。
息子のクラスにも3人いる。
そのくらい養子縁組が多いのだ。
受け入れる子供たちは、アフリカ、北アフリカ、アジア、と全世界に跨っている。
フランス人だけを扱う養子縁組協会とは別に外国の子を仲介する協会もあるようだ。
ブノワのご両親はフランスの協会だけじゃなく、ベトナムや韓国へも行き、登録をした。
フランス政府が養子縁組を積極的に支援している。
なので、本当に様々な家庭環境の子供たちがいる。
その子たちは政府やそういう団体に強く守られている。
こと子供の問題に関して、フランス人はうるさい。
子供を守ることに関しては国を挙げて積極的に取り組んでいる。



「そんなことないと思うよ。お母さん、言葉に出来ないだけだよ」
とぼくはブノワに伝えた。
「いいや、長い付き合いだからよくわかるんだ。彼女はぼくの母親にはなれなかった。他の学校の子たちの親を見てきたから、何が違うか、分かるんだよ」
「でも、葛藤があったのだと思う。それに、科学者で忙しかったから」
ブノワはじっとぼくの顔を見ていた。
「母さん、今、病気なんだ。歳だから、コロナに罹らないか、ぼくは心配している。でも、ぼくはどうしていいのか分からない」
「いいや、君は分かってると思うよ」
ぼくはそう言った。ブノワはうなだれ、下を向いてしまった。雲が割れて、そこから光りが差してきた。ぼくは空を見上げた。こういう時、ぼくはいつも空を見上げるようにしている。
「雨があがった」
とぼくが告げると、ブノワも空を見上げた。 

滞仏日記「彼女はぼくを一度も愛したことがなかった」

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