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リサイクル日記「塵も積もれば山となり、小さな幸せも積もれば大きな幸せとなる」 Posted on 2022/07/28 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、ここ最近、ずっと幸せについて考えている。
一言で言い切るにはあまりに大きな概念だから、一緒くたにはできないけれど、あえて一つにしちゃうならば、人が絶望するのはどこかで幸せを目標にしちゃってるからじゃないか、或いは使命にしているから…。
今よりももっと幸せになりたくてなれなくて、本当は今幸せなのにそれに気づかず、気が付けば人生を投げ出してしまっている、なんてのはもったいない。
無理して幸せになろうとすると幸せになることが思った以上に大変で苦痛になることがある。
幸せというものの怖さだ。

リサイクル日記「塵も積もれば山となり、小さな幸せも積もれば大きな幸せとなる」



だからぼくは大きな幸せと小さな幸せと大雑把にだけど区別して考えるようにしている。大きな幸せって、何よ、と言われてもうまく説明出来ないけど、手が届き難い、難易度の高い幸せじゃないか、と思う。
じゃあ、小さな幸せって何よ、と言われたら、目標じゃないもの、なにげなく日々の中で起こる、ふっと笑みを誘われてしまうようなこと…。
大事なのは小さな幸せなんだよな、とぼくはこの歳でやっと気が付くことが出来た。

大きな幸せを手に入れようとすると人間というのは無理をする。
無理をして手に入る幸せもあるだろうが、それは稀だ。
逆に、大きな幸福を狙い過ぎて、手に入らない時、失望感が生まれる。
酷い場合は絶望する。
実は幸せだったのに、もっと大きな幸せを手に入れたくて頑張った挙句、最初にあった幸せを犠牲にしてしまう、なんてこともある。
大きな幸せには手が届かないがために、人間は落ち込んで、不幸になってしまうのだ。



で、最近、ぼくはちょっとしたことで心が楽になった時、或いは何気ないことで微笑みを誘われた時、あるいは「へ~、いいなぁ」と思えた時なんかを、小さな幸せと呼ぶようにしてみた。
あ、来た来た、小さな幸せ、と呟くようにしている。

たとえば、朝、淹れたコーヒーを口に含んだ瞬間、もしくは行きつけのカフェのいつものお気に入りのテラス席が空いていた時とか、息子に、ありがとうって言われた瞬間、ごはんが美味しく炊けた時とか、いつもより目覚めがいい朝とか、をぼくは小さな幸せと呼んでいるのだ。
これを出来るだけかき集めるようにして生きている。
小さな幸せを無視しないように、見逃さないようにしている。
その一つ一つを噛みしめるようにしている。

大きな幸せって、手に入ったら入ったで、怖いものだし、そういうものの後には必ずなんらかの反動が待ち受けたりする。
いきなり訪れる幸せは怖い。
少しずつ少しずつ、気づかないうちに辿り着ける幸せがいい。
朝、行きつけのカフェに行き、カフェオレを飲む瞬間の小さな幸福には反動など待ち受けていない。
だから、そういう小さな幸せを、たとえばベルマークを集めるように、或いはスーパーの割引券を集めるように、ちょっとずつ集めて増やしていけば、自然と、ある程度大きな幸せになっているのじゃなか、と思う。

リサイクル日記「塵も積もれば山となり、小さな幸せも積もれば大きな幸せとなる」



窓から差し込む光りが壁に見たこともない模様を描いてる時なんかがあるけれど、そういう瞬間、ぼくは「ラッキー、なんかいいことあったね」と思うようにしている。
しかし、こういう喜びって、無意識に、別の喜びを連れてくるものだ。
一ついいことがあると、そのいいことがもう一つなんかを連れてきてくれる。
いい気分って、いいものを誘い込む力のことだったりするんだ。
或いは、見逃さないことだと思う。そして、丁寧に生きることじゃないか、と思う。
そういう風に生きている人には、絶望や失望が少ない気がする。

急いでいたり、欲を出していると見逃してしまうものがある。
調子が悪かったり、空回りしている時にこそ、思い出してほしい。
ゆっくりと生きて、丁寧に生きて、自分の周りにある小さな幸せを探せばいいのである。
小さな幸せも積もれば大きな幸せとなる、ぼくはこれが最善だと思っている。

リサイクル日記「塵も積もれば山となり、小さな幸せも積もれば大きな幸せとなる」



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