JINSEI STORIES
滞仏日記「中村江里子とシャルル・エドワード・バルトの愛」 Posted on 2020/09/29 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、突然だが、幸せな方々の話しを訊くのは苦手なタイプである。
幸せそうなカップルとか見るとむかむかする陰湿なオヤジなのである。
ここんところ、ぼくは気分が塞ぎがちで、コロナで精神も疲弊しきっている上、家事から逃げ出したい。
もう、そういう時に眩しいくらい幸福そうな夫婦をみると辛い、はずだった…。
でも、今日、中村江里子さんとご主人のシャルル・エドワード・バルトさんと食事をする機会があり、二人を前にしたら、なんでか、その幸福がぼくにじわじわと押し寄せてきた。こういう夫婦がいるんだな、と思って、好奇心が沸いた。
オシドリ夫婦と言うが、実は超仲の悪い、仮面夫婦のようなカップルもいるので、バルトさんに会うまで、きっと陰湿なぼくは彼のことを違った角度で見ていた。
会うのは二回目だけど、最初に会った時の印象がちょっとよくなくて(ごめんなさい、シャルル)、しかし、実際は違った、人間というのはわからないものだ。
二時間ほどの食事が終わる頃、ぼくはすっかりバルトファンになっていた。
今日は、中村江里子さんのお話じゃない、彼女のご主人、シャルル・エドワード・バルトについて、である。
「おいくつですか?」
とぼくがさりげなく聞くと、49です、と日本語で戻ってきた。
日本語を話す。流暢ではないけれど、フランソワーズ・モレシャンさんみたいなアクセントではあるが、片言でも、物おじせず、どんどん、自分を伝えてくる。6か国語を操るのだ、という…。
「辻さんは?」
「あ、ぼくは、47です。二つ下になりますね」
ああ、と呟き、もっと若いのかと思った、と言われた。えへへ。←嘘。
ぼくらは、くつろぎ、リラックスしたムードの中、バルトさんのお仕事について話した。
エヴィドンスドゥボーテという化粧品会社を全世界に展開している。日本で開発した商品を世界26か国におろしている。
日仏の国籍を持つ会社だけど、13年ほど前にスタートを切った。
彼は身を乗り出し、「だからですね、大変でした、最初は自分の家の居間が会社で、赤ちゃんがいるのに、商談してました」と語る。
上の娘さんがうちの息子と同じ歳で、だいたいぼくと江里子さんは同じ期間、パリで暮らしていることになる。
バルトさん、若い頃のジャン=ポール・ベルモンドみたいな雰囲気。しかもお洒落で、センスがよく、明るく、情熱家。なにより、自分を必死で伝えようとしてくる。
この人はこうやって世界26か国に自分を売り込んだのだな、と思った次の瞬間、それまで江里子とシャルルの間は、ソーシャルディスタンスがきちんと保たれていたというのに、熱を帯びて語りだしながら、シャルルの左手は自然と江里子の肩に…。
回したな、と思った次の瞬間、肩に触れたのだけど、そこがレストランだと気づいたシャルル・エドワード・バルトは、まるでハンカチを空に放り投げるような感じでサッと手を離した。
ぎょえーーーーーー、とシングルオヤジのぼくは思ったのだけど、見て見ぬふりをしながらバルトさんの一挙手一投足に目が離せなくなる。
彼は片言の日本語ながら、ボーテについて、つまり美について語りだし、女性が美しくあるためにしなければならないこと、などを力説した。
「美はテツガクだよ、それは哲学、わかりますか?」
バルトさんは情熱的な目で、ぼくにじゃなく、江里子に向かって語っていた。
うわああああ、とぼくは恥ずかしくなって、心がのけぞってしまった。
ぼくも若い頃は気障な男と言われてきた部類だが、もはや、バルトさんの足元にも及ばなかった。カッコ良すぎる。
でもなんで、このイイ男に焼きもちを焼かないのだろう、と思った。
多分、この人が自分をさらけ出す天才だからだろう。
嫌いなものは嫌い、好きなものは好き、全てに嘘がない。
そこで、ぼくは思い切って、二人のなれそめについて問いかけてみた。
いったい二人はどうやって出会ったの? すると、バルトさんが片言の日本語で二人のなれそめについて語りだしたのだけど、そのまま書くとつまらないので、小説風に、三人称で、ここからは書いてみたい。お付き合いください。
「第一章、 バルトと江里子の出会い」
あれは20数年前のことだ。その頃、ぼくはまだモードの世界で働いており、野心家だったが、青空のような夢ばかり描いている若者で、30歳までは独身を貫こうと心に決めて、仕事と情熱のためだけに生きていた。江里子との出会いはそういう有頂天な青春の終わりに、旧都ホテルの古びたエレベータの中で起こった。邂逅というが、めぐり逢いほど運命を必要とする瞬間はない。ぼくらは初対面で誰からも紹介されることもなく、ごく自然に、見つめ合っていた。江里子がぼくをじっと見つめているのが分かったけれど、しかし、奇妙なことにその瞬間は何も起こらなかった。ただ、江里子はゆっくりと瞬きをしただけ。古い写真機の重たいシャッターを押すような感じで、ぼくの記憶の印画紙の中に彼女が焼き付くことになる。誰だか一切分からない女性で、しかも日本人で、狭いエレベータの中で出会い、数十秒後、扉は開き、そうだ、江里子は出て行った。出て行ったのだけど、ぼくには彼女がぼくの中に入ってきたような気持ちを覚えた。次に再開するのは東京タワーの袂にある老舗ロシアレストランで、ビジネスディナーのためにぼくはモード界の人間たちと一緒だった。着席しようとしていると、見覚えのある女性が過った、その横顔、見覚えがある。思わず時間が止まった。音が消え、世界が固着した。次の瞬間、息を吹き返すと、ぼくは大事なゲストをほったらかして、彼女を追いかけていたのだ。都ホテルで会ったのは一年も前のことだった。覚えてますか、とぼくが息を切らせながら訊くと、あ、と江里子がぼくを見つめ、再び、あの邂逅が蘇った。ええ、と江里子は言った。ぼくはずっと覚えていた。寝ても覚めても都ホテルのエレベータの中での出会いが忘れられなかったのだ。江里子もぼくのことを覚えていた。ええ、思い出しました、覚えています、と江里子は言った。これはタダの運命じゃない。本当の運命なのである。
卒倒しそうになる、物語にすると…。
でも、真実のラブストーリーなのである。
エレベータの中で視線を合わせただけで、何も言葉を交わすこともなく、別れて、一年…。
ぼくは昨日のことも忘れる年齢になったので、真実は小説より奇なりやな、と思った。
だから、本当の運命と言い切ることを許す。←誰?
二人はそこから3年ほどの交際期間を経て結婚。
バルト氏の左腕は今も江里子の肩のあたりで、幸せそうにハンカチを空に放り投げ続けては、幸福そうに揺れている。しかし、話しはここで終わらない。
「まだあるの?」
「あるんだよ、辻さん。実はね、エヴィドンスドゥボーテはね。肌が弱かった江里子のために作った会社なんだ。でも、日本で宣伝とかするの、恥ずかしいから、後回しになっているけど、そろそろ日本で、路面店とか作らなきゃって、思ってる」
ぬけぬけと、このフランス男はこんなことを言うのだ。
江里子のために、
江里子のために、
江里子のために、
エリーゼのために、
じゃじゃじゃじゃーーーん…
≪つづく≫