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退屈日記「居心地のいい人というのは、一緒にいると素直になれる人」 Posted on 2020/09/17 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、人間というのはある程度の歩み寄りがあってはじめて、いい関係性、素晴らしい人間関係というものが出来るのだ。
ところがある人たちはこの歩み寄りを拒否してくるので、そうなるとこちらが一生懸命歩み寄ろうとしても苦しくなるだけだったり、くたくたになるだけである。
大人になり、これをいやというほど経験してきた。
最近も、そういう方がいて、こちらの考えや気持ちを一切聞くどころか、その手前で遮断されてしまうということがあり、困ったものだな、と思ったばかり。
歩み寄りというのは妥協じゃなく、相手の懐に入るための第一歩だと思えばいい。
歩み寄ってからダメだと分かることもあるので、そういう時は退出すればいいだけのことで、最初から歩み寄ろうともしない人と、いい関係性は結ぶことが出来ないので、こういうのを時間の無駄という。
ぼくは歩み寄る姿勢がない人とは最初から話をしないことに決めている。



それから、思い出したので、追記しておくと、歩み寄りを拒否される人の中には、本当は歩み寄りたいのだけどで、躊躇があって、出来ずにいる人もいる。
こちら側の問題もあって頑なな気持ちで遮断をしてくる人もいる。
全部、相手が悪いわけじゃないこともあるので、ここは注意して相手と接するのがいい。
人間は波だ。打ち寄せては返す。この繰り返しなので、焦ってもならない。
ともかく、様子を見て違うかな、と思ったら、深入りをしないこと。
歩み寄れない人と揉めるともっと面倒になるので、関わらないに越したことはない。
分かり合おうとするエネルギーって分かり合える人には惜しみなく使うべきものだけど、分かり合いたくない人をこっち向かせるエネルギーというのは荒れ地を耕して家を建てるくらい大変な労力が必要なので、荒れ地のままでいい。
広い世界だから、荒れ地くらいあると思って、広い世界に出て行くと肥沃な土地に出会えるものだ。



逆に、理屈はわからないのだけど、一緒に居るととっても居心地のいい人間がいる。
ぼくは最近、こういう人こそ、この厳しい世界を生きていく上でとても大事な存在だと思ってならない。
こういう人は押し売りをしないし、自分を押し付けてくることもないし、たとえ仕事であっても損得よりも人間性で動いてくれている人なのだ。
歩み寄りとかそういうレベルでもなくて、受け止めてくれる。ひし、と受け止めてくれる存在だったりする。
この喧しい世界に、そういう存在は稀有で、ぼくはこの人は凄いな、と思ったら、大事にさせて頂いているし、時々は連絡をし、その空気感を共有させてもらい英気を養うようにしている。
こう書くと、徳の高いお坊さんと科学者さんかな、と思われるかもしれないが、ぜんぜん、そうじゃない。
ごく普通の人で、でも、心に壁がないのである。
必ず、一人や二人は周囲にいるので、もし人生が厳しくなる時は、ちょっと連絡をいれて、話しをしたらいい。
気分を変えて、気持ちを入れ替えて新しいことに挑むのがいい。なんだか知らないけど、一緒に居るとめっちゃ風通しがよくなり居心地いい、という人、探してみよう。
そういう人といる時、何が違うかって、まず、自分が自分を好きになることが出来る、のである。

退屈日記「居心地のいい人というのは、一緒にいると素直になれる人」



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