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退屈日記「態度につい出てしまうその人の形について」 Posted on 2020/09/02 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、ぼくは無意識に相手の態度から、その人の今この瞬間の心の位置を分析する癖がある。
相手が自分にどのような態度をとっているのか、で、その人の心の中を推し量っている。
人間は必ず自分が抱えているものが態度に出る生き物だ。
どんなに冷静な人であろうと、態度を見ているとよくわかる。
今はつらそうだな、とか、余裕がないな、とか、恋愛や仕事がうまくいってるな、とか。メールとか、ラインでも、それを推し量ることが出来る。
今はちょっと連絡を控えた方が良さそうだな、とか…。



苛立ちとか喜びというのはどうしても隠せないものだ。
当然、その人の態度で、その人間の生き方もよくわかる。
余裕のない時にこそ、その人の態度に全てが現れる。
ぼくは職業柄、この人間の態度というのは作品作りの上でとっても重要なものとしてきた。
相手の態度で、その人との距離感をはかってもいる。
ぴりぴりしている場合はなるべく近づかない。
それが長引く場合は、何かがあるので、そっとしておくのがいい。

うちのアパルトマンが入った建物の一階に美容院があり、息子もぼくもお世話になっている。
なんどか、この日記でも登場している。
コリンヌが経営者で綺麗な人だ。穏やかで、いつも目が合うと手を振ってくれて、爽やかで元気で、絵に描いたようなはつらつとした女性だった。
でも、彼女の態度がロックダウン開けから一変した。一度、髪を切りに行ったのだけど、目を合わせようとしないし、心がそこにない。
ここまで人間の態度が変わるのは久しく経験したことがなかった。それである日、6月末のことだけど、息子に言った。
「残念だけど、下の美容院、なくなるかな」
「なんで、分かるの?」
「コリンヌの心がそこになかった」
そして、三日前の日曜日、真っ暗な店の中に数人の男女がいて、一番奥にコリンヌが立っていた。
いるのが分かったけど、それはコリンヌじゃなかった。
今日、店のガラス戸に「オーナーが変わります」と書かれてあった。



理由はわからないけど、コロナの影響であることは間違いない。不意の経営難とコロナへの不安から希望が折れたのだろう。
ロックダウン後のこの4ヶ月、コリンヌは自分の心を隠して人には見せようとしなかったが、その態度から精神状態が滲みでていた。遅かれ早かれ閉店するだろうと思っていた通りになった。
残念なことだけど、一番残念なのは、そこにあの笑顔のコリンヌがもういないことだ。

態度というのは文面にも出る。
やる気や意気込みや希望や喜びというものは文面で隠せない。
ラインのような短文メッセージにも出る。
了解、と書かれた二文字にも、その人の了解出来ない気もちなどが滲みだす。
前後のやり取りから推察するわけだけど、中には顔色の見えない文面もある。
でも、用心深く眺めると、全体からその人の生き方や現状や今の状態や人との向き合い方などが滲みでている。
言葉の態度や顔色というものは、本当に文章に面白いくらいよく出るので、その人間模様にハッとさせられ続けている。



佇まいにも、その人の心はよく現れる。
たかが立っているだけだけど、そうじゃない。
佇まいというものは、その人間の心の形を現すもう一つの鏡である。
佇まいに心が出る人は傷つきやすい人かもしれない。
自分を隠せない人かもしれない。
だから、ぼくは人間を観察するのが好きで、いつもカフェのテラス席から人間を眺めているのであろう。
会ったこともない人の人生をその佇まいから想像していたりする。

とある知り合いとある会合でばったりと会った。
ぼくがここにいるのに、目を合わせようとしない。
その態度が変で、というのは昔とっても仲が良かったからだ。でも、なぜか遠ざけられている。
気付かない年月の中に、その人とぼくを遠ざける何かが起きていたのかもしれない。
思い切って挨拶に行くと、もちろん笑顔でやり取りはあった。でも、心は無かった。
そのご縁はそこまでとなった。
こういうことは結構あるのだけど、理由がわからない。
ぼくは日記などで私意を綴っているので、主義主張が合わないと敬遠されたのかもしれない。

余談になるけど、
ぼくはそっとしておいた方がいいな、と思う人には、そっとしとかないで普通に話しかけるように決めている。
そっとしとくって、普通なかなかできないからね、当たり障りのないことを話す。
もっとも、当たり障りのないことを探すのが難しいけれど…

退屈日記「態度につい出てしまうその人の形について」

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