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滞仏日記「パリで流行中、キャッシュディスペンサー強盗」 Posted on 2020/08/24 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、パパ、ちょっと出かけてくるね、と息子の声がした。振り返るとスケボーを持って立っていた。どこでやるの? 本当は危ないからやめてもらいたいのだけど言えなかった。
「レピュブリック広場にスケートパークがあるんだ。仲間たちと滑ってくる」
物騒な場所は多いので、本当はあんまり出歩いてほしくない。コロナよりも怖いものが実は世の中には溢れている。コロナのニュースのせいで強盗、泥棒、暴力事件が隠れてしまったが、なくなったわけじゃない。経済が低迷しているので、むしろ増えているのだ。若者が集まるところには、事件が起きる。でも、16歳の青年を家にくくりつけておくわけにもいかないので、
「いいか、絶対に隙を作るな。どんな時も四六時中背後を意識しとけ。危険を察知したら、一目散で逃げるか、逆に振り返って相手と対峙しろ。背中を見せ続けるのは危険だからな」
と言っておいた。
「背中? なんで?」
「とにかく、理屈はいいから、背後だけ気を付けて意識していろ。いつか、分かるから」
うん、と言って息子が出て行った。気を付けないとならないのは、常に、背後なのである。数日前、友人の女性が被害にあった。



フランスのキャッシュディスペンサーは道に露出している。アメリカなんかもそうだ。日本のような室内キャッシュディスペンサーだと、密室なので傷害事件につながる場合が多い。そこで、わざと道に面してキャッシュディスペンサーが設置されている。数日前、知り合いの女性がそこでお金をおろそうとしていた。カードを入れ、60€を押したところで、若い不良たちに囲まれた。背後を気にしていたら、やられなかった。でも、後の祭りだ。その子を取り囲んだ不良たちは何も言わず、画面を新聞で塞いだ。この間に別の奴が何をしたかというと、60€をキャンセルし、最大でおろせる500€(日本円で62500円)に打ち直したのである。右にも左にも後ろにもでっかい不良がいた。パニックにならないわけがない。カードが出てきたので、その子は慌ててカードを掴んで逃げたのだけど、もう、手遅れであった。カードの後に出てきたのは、500€だった。でも、モノは考えようだ。怪我をしなかっただけ、よかった、と思うしかない。

滞仏日記「パリで流行中、キャッシュディスペンサー強盗」



もっと凄い強盗に遭遇した知り合いのお母さんもいる。その人はパリ中心部の比較的安全な地域で銀行に設置された室内型のキャッシュディスペンサーでお金をおろした瞬間に、男が押し入り、俺はエイズだ、金を出せ、と注射器を持って言ったので、逆らわずに渡したら、刺された。もちろん、命に別状はないけれど、そのお母さん、パニックになり、警察よりも真っ先に病院に駆け込んだのだとか。それも何度も検査をやり、結果としてはなんともなかったのだけど、…。知り合いは、きっとその男は薬中だったのだろう、と言った。
別の知り合いがバスティーユ広場を歩いていたら、若い不良たちに囲まれて、いきなり殴られ、買ったばかりのアイホンを盗まれた。興味深いのは、そこが警察署の前だったこと。安全な場所などない。息子がスケボーをやるのは構わないのだけど、まだ、そういう怖さを知らないし、初心なのだ。怖い目にあったことがない子供が痛い目にあって、携帯やお金を盗まれたらどうなるだろう、と思った。相当、ショックを受けることになるだろう。心配しても、どうにもならないのは分かっている。痛い目に合わないと分からないこともある。スケートパークは安全な場所だけれど、全員が安全な若者ばかりではない。若い連中が集まる場所に、不良たちも目を付けている。



そういえば、ぼくはパリで一度も危ない目にあったことがない。危ない地域にも行くけれど、常に背後を気にして、警戒心を緩めないので、狙われないのかもしれない。こぎれいな恰好の人は気を付けた方がいい。日本人オーラを出しているといいカモとなり、狙われる。武士じゃないけど、常に背後を気にして歩かないとならない。危険を感じたら、背中を向けないで即座に走って逃げるか、後ろの人間とあえて対峙し、先にいかせる。女子の場合は店舗に逃げ込むのがいいだろう。緊張感と警戒心を常に持ち続けることだ。ロックダウンがあけて、お金がなくて、犯罪に走るケースが世界中で報告されている。コロナで物騒になっている。



夕方、ぼくも外出をした。警察が多い。パリはそれでも、治安がいい方だと思う。セーヌ河畔のベンチに座って、ぼんやりと空を眺めていた。すると、息子から電話が入った。マジか、と思った。緊急事態じゃないと電話をよこさない奴からかかったので、驚いた。
「パパ」
「どうした?」
「何時に帰ればいい?」
「夕食までに戻ればいいよ。無事か?」
「うん。無事だよ。みんな優しいよ。今日はジャンプを教えてもらってる。出来るかもしれない。あと少しで」
「そうか、よかったな。でも、気を付けろよ。油断して、隙を作るな」
「分かってるよ。背後を常に意識している」
「よし。じゃあ、あとで」
「うん」
ま、何事も経験である。その時、背後に気配を感じたので、慌てて振り返った。すると、そこに空が広がっていた。

滞仏日記「パリで流行中、キャッシュディスペンサー強盗」

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