JINSEI STORIES
滞仏日記「寂しさに負けた。父ちゃん、息子の待つパリへ」 Posted on 2020/08/16 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、終戦の日だったので、ずっと海を見ていた。昨日、そこの砂浜で倒れたおじいさんのこともずっと気になっていた。するとなんだか、寂しくなった。帰るのは明日の予定だったけれど、もう今日、家に帰ろうかな、と思った。こんなことで寂しがってるようじゃ、フランスの田舎で一人暮らしなどできるわけがない。息子に言ったら、ほらね、とバカにされるに決まっているので、日にちを間違えて帰ったことにしよう、と決めた。荷物をまとめ、部屋を片付け、残った食材でちゃちゃっとご飯を作って食べた。ぼくの大好物のコンコンブル(きゅうり)サラダとサーモンのノルマンディ風スパゲッティである。
午後、リースのドイツ車が直るまで代車として借りているフランス車に荷物を積み込んだ。しかし、これがなかなか運転しやすい車だった。種明かしをしておきたい。実はルノーのキャプチュールという車である。ぼくは自動車オタクじゃないので、よくわからないけれど、家族向けの車としてはとっても走りやすかった。高級車ではないけど、グッドカーだった。カルロス・ゴーン氏がバリバリやっていた時期の主力車でもある。いや、カルロスは失敗だったかもしれないが、車はぜんぜん、悪くなかった。
そういえば、パリに帰ろうと思ったのにはもう一つ、理由がある。昨日、ぼくの携帯にリースしているドイツ車の本社顧客サービスの責任者から、あまりに責任者が多いので記憶に残らないけれど、たしか、5人目くらいの責任者から電話があった。すっかりあの一連の事件のことを忘れていたが、うちの対応に何か問題がありましたか、とのんきなことを言われたので、かちんと来て、もはや怒るつもりはなかったのだけど、一応これまでの経緯を全て時系列に沿って対応も含め、伝えておいた。5番目の責任者は、絶句し、言葉の上で謝り、一応、上司にあげると言い残して電話を切った。6番目の責任者から電話がかかってくるのであろうか。で、5番目曰く、車が出来たので、週明けにでも取りに来てくれ、ということであった。月曜日の朝八時にパリから一時間離れた田舎の工場まで取りに行かないとならない。戻ってすぐはつらいから、一日早めて帰ることにしたのだ。やれやれ。
パリに帰る前に、クロード・ルルーシュ監督の映画「男と女」の舞台になった大好きな街、ドーヴィルにドライブを兼ねて、立ち寄ることにした。大昔、ぼくの監督作品がここの映画祭に招待されたことがあり、数日滞在したことがあった。広大な浜辺のある美しいリゾート地だ。映画「男と女」といえば、あの名曲、フランシス・レイの、ダバダバダ、ダバダバダ、でおなじみだけど、歌っていたのは、ピエール・バルーだったっけ。懐かしい。でも、映画の中身はもう覚えてない。そういうものかもしれない。切ない印象だけが残っている。
浜辺を移動し、海岸線を走った。心地よい走りだった。トヨタ、日産、スズキ、マツダ、ホンダ、そうだ、スバルとすれ違った。日本車を見つけると、嬉しくなった。だったら、最初から日本車を買えよ、という話だ。不意に裏切り者になったような寂しい気持ちになった。次回は絶対日本車を買います。
車をとめて、海岸線を歩いた。ポケットに手を入れ、海辺を映画「男と女」の主人公ジャン=ルイ・トランティニャンを気取って歩いてみた。相手役がいないので、やはり寂しい感じがした。すると、カモメが舞い降りてきた。やっぱり、そうでなくっちゃ、と思った。ぼくは犬とか、カモメとか、動物には愛されるのである。
そして、二時間後、息子をびっくりさせて驚かしてやろうと思ってパリに辿り着いたのだけど、れ、れ、れ、家の中は真っ暗なのである。
ん? あいつ、どこだ? ≪続く≫