JINSEI STORIES

滞仏日記「心臓マッサージ、生と死の境目のような悲しい境界」 Posted on 2020/08/15 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、外が騒がしいので、出てみると、若い青年が血相変えて駆け上がって来て、ムッシュ、椅子、その椅子を貸して、と叫んだ。遠くを見ると、浜辺のベンチの下に誰かが倒れており、若い男性が老人の胸に手を当て、心臓マッサージをしている。もちろん、と言うのが精一杯だった。倒れているのはご老人で、かなり太っていた。人だかりが出来ている。多分、心臓マッサージをしているのは走ってきた青年の仲間のようだ、かなり若い青年…。両方の手を合わせ、テレビでよく見るような心臓マッサージをやっているが、あばら骨が折れるのじゃないか、というくらい激しく押している。あんなに押したら、死んじゃうんじゃないか、と心配になったので、椅子を持って行こうとする青年の背中に向かって、あんな強いマッサージで大丈夫か、と告げると、それが普通ですよ、と返ってきた。ご老人は、まだ、倒れて間もない感じだった。椅子を持って青年が駆け下りていくと、今度は別の若い二人の青年が駆け上がって来て、表の通りに飛び出し、手を振った。救急の車を誘導していのだ。最初に到着したのは大型の消防の車で、中から黒い制服を着た消防隊員たち(ポンピエと呼ばれている)が数名出てきて、浜辺へと駆け降りて行った。えらいことになった、と思った。

滞仏日記「心臓マッサージ、生と死の境目のような悲しい境界」



老人はぐったりしていて、起き上がる気配もない。消防隊員が監視員の青年と交代をし、心臓マッサージをはじめた。フランスの中学、高校では心臓マッサージの授業があり、学生たちはこのフォーメーションを心得ている。ぼくも出来るよ、と息子が自慢をしていたことがあった。しかし、いくら出来ても、実際、自分の目の前で不意に倒れた人のマッサージなんかできるものじゃない。多分、ぼくには出来ない。いや、目の前で誰かが倒れたら、やっているのかもしれない、他に方法がなければ、やるのかもしれない。そう考えると、不意に恐ろしくなった。青年に替わり、消防隊員は青年よりももっと強く、老人の心臓の真上を押している。めり込むように、押していた。あの人は死ぬのだろうか、と思った。海水パンツをはいているので、海水浴に来たおじいさん、たぶん、この地元の人だろう。泳ぐことにも自信があり、でも、年齢には勝てなかった。家族は、奥さんは、どこにいるのだ。ぼくは周囲を探したが、サーファーの若い子たちしかいなかった。

消防隊員の直後に、救急車(SAMU)が到着した。さらに誰か来るのだろう、周囲の状況を無線で知らせている。ぼくは何か手伝わなきゃ、と思うのだけど、息子がいないので、こういう場合のフランス語に自信がない。足手まといになるだけだから、じっとしておこう。それにしても、こんな長閑な、田舎の浜辺なのに、と思った。サーファーの仲間たちであろう、若者たちが駆け寄って来て、そこら中の椅子やパラソル傘などをかき集めて、ご老人に太陽が直射しないよう大きな屋根を拵えた。彼らの迅速な行動力が頼もしかった。これが若さだと思った。あっという間に、巨大なテントのような小屋が出来上がったのだ。老人の足しか見えなくなった。



サイレンの音が次から次に聞こえてきた。家の前に、大きな救急車両が到着し、ついに医者たちが降りてきた。ドクターを中心にした白衣の医療関係者たちで、専門医だと分かった。背中に電気の機材、多分、心臓をマッサージ機や、酸素ボンベなんかを背負っている。これらが医師とともに、倒れている老人の元へと届けられた。

滞仏日記「心臓マッサージ、生と死の境目のような悲しい境界」



さっき調べた知識だけれど、脳自体には酸素を蓄える能力がないらしく、すぐに酸素を供給しないとならない。2分以内に心肺蘇生が開始された場合の救命率は90%程、あるらしい。4分では50%、5分では25%程度とだんだん下がっていく。老人はベンチに座っていたが、猛暑なので、立ち上がったと同時に倒れた、と思われる。最近、猛暑、酷暑が続くので、このようなことが頻発している。その時、たまたま、そこに居合わせたか、通りかかった青年たちの素早い行動がもしかすると、功を奏するかもしれない、と思った。続いて、警察車両が到着し、浜辺が一瞬で封鎖された。ぼくは彼らの邪魔をするのはよくない、と思った。そして、見続けるのは、倒れている老人に対して失礼になる、と思い、家の中に戻った。

滞仏日記「心臓マッサージ、生と死の境目のような悲しい境界」

ふと思い出した。そうか、お盆なのだ。ぼくが今いる浜辺は、第二次世界大戦時の1944年に連合軍が上陸した海岸の一つであった。終戦からちょうど75年目に、ぼくは上陸作戦が行われた浜辺にいたのである。ドイツ軍と連合軍との激しい戦闘が行われ、1944年、多くの若い兵士がそこで命を失っている。ぼくは祈った。あの老人が助かるように、と。そして、失われた多くの命が安らかに眠れますように、と。

ぼくは結局、消防隊員や救急隊員らがそこから立ち去った後も、しばらくの間、家から出ることが出来なかった。あの老人は結局、目を覚ますことはなかったのだ。もしかしたら、病院で蘇生しているかもしれないけれど、それ以上のことはわからなかった。太陽が沈み、静寂が訪れた。夕食を食べる気にならず、星が出始めてから、ぼくは浜辺へと降りることになる。玄関の扉の前に、若い青年に貸した椅子が戻されてあった。なぜか、怖くはなかった。心臓マッサージが行われていたベンチの前を見つめた。浜辺は暗く、誰もいなかった。波の音だけがした。波打ち際はそこから百メートルくらい先にあった。オレンジ色の街灯の光りによって、波打ち際が、生と死の境目のような悲しい境界を描いていた。

追記。この子たち、学校で救命の授業を受けていたのだろうけど、集まった子たちはテントを支える子たち、女子もいた。心臓マッサージする子、消防隊員に連絡をし誘導した子、どこか訓練された統一感があった。今、思うと、あれは田舎の子だから出来たことなのか、それとも教育の成果なのか、ちょっと気になった。パリに戻ったら、息子に訊いてみたい。

自分流×帝京大学
第4回新世代賞 作品募集中