JINSEI STORIES
滞仏日記「ママと叫ぶ少年、それをじっと見つめる息子」 Posted on 2020/08/11 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、沈む夕陽を見るために、夕刻、息子と浜辺に出た。もうずっとこうやって、この子とは生きてきた。今や、ぼくよりもうんと大きな男性に成長している。ぼくらは砂浜に並んで腰を下ろしていた。会話はなかった。話すことがないのじゃなく、話す必要がなかった。ぼくはなぜか息子が生まれた時のことを思い出していた。今は、むくつけき高校生だが、幼い頃は可愛らしい子だった。父親とは不思議なもので、幼い少年であろうと、むくつけき高校生であろうと変わりがない。一生、この子はぼくの可愛い我が子なのである。
すると、その時、
「マモン!」
という声がした。
そして、一人の少年が走って来て、ぼくらの近くにいたお母さんの足に抱き着いた。その子は、帰りたくない、と駄々をこねている。もっと遊びたいのだけど、もう太陽が沈みかけているので、帰らないとならない。嫌だ、嫌だ、もっと遊びたいよ、ママー、ママ―、と子供は叫んでいた。それが次第に鳴き声に変化していく。
「ママ―、ママー」
子供が大きな声で泣いている。それは小さな頃の息子でもあった。ぼくは、二人切りで生きるようになって、このママという幼い子供たちが発する言葉に警戒してきた。とくに10歳の頃、11歳の頃、小学生の高学年の頃、母親がいなくなった後、暫くのあいだ、「マモン」と甘える子供たちの声から息子を守ってきた。息子も甘える子供たちに背中を向けて生きていた。逃げるような時もあったし、だいだいは無表情で(たぶん必死で)無視をしていた。ぼくがそこに立ち会った場合は、息子の肩を抱き寄せ、その場所から連れ去るようにしていたが、ぼくがいない時にそういう状況に遭遇する時はいったいどうしていたのか、…よく分からない。
「ママー、帰りたくない。もっと遊びたいよー」
「ダメよ、ジャック。もう帰るの」
「帰りたくないよ」
「ジャック、帰るのよ。ほら、いい子ね、泣かないで。また、連れてきてあげるから。一緒に帰りましょ」
その子のお母さんはぼくの息子の目の前で少年を抱きしめ、キスをした。でも、ぼくは昔のように、その場から息子を退避させることはない。もうすぐ17歳になる。再来年から大学生なのだ。彼は彼なりに自分の境遇を知っている。横目で息子をちらっと確認した。無表情の顔で、目でじっと少年を見ていた。ただじっと見ている。この子はいつもこういう目で世界中の母子を眺めていた。ぼくの視線に気が付いた。次の瞬間、息子は取り繕うように、たぶん、鼻で笑った。ぼくはヒヤッとした。その笑い方は、しょうがない子だね、というようなお兄ちゃんぶったものであった。太陽がこの母子の向こう側を赤く染めていた。
ぼくらに、それ以上の会話はなかった。この子がいったい母親に関して何を思っているのか、ぼくは訊いたことがない。いや、ただ一度だけ、12歳くらいの時に、なぜこうなったのかを客観的に語ったことがあった。するとその時、息子は
「ぼくの前で一切そのことは言わないで、ぼくは必死で我慢しているんだ」
と、物凄い形相で怒った。彼が抱えていることがわかったので、もう何も言えなくなった。いつでも隠し事せずに話すつもりでいるのだけど、いいことか悪いことか分からないのだが、この問題だけはずっと辻家でタブーだった。ぼくの至らなさのせいもあるので、…そうだ、ぼくにはずっと負い目があった。空洞のまま、そこだけを見ないように、彼はぼくの横で成長を続けた。ぼくでは埋められないものがあるのだけど、こればっかりはどうしてあげることもできないので、ぼくもそこには触れず、すべてを時間に委ねてきた。
お母さんは広大な砂浜の真ん中で少年を抱きしめ、そのまま両手で抱きかかえてしまった。幼子はお母さんの胸に抱かれた。二人はゆっくりと遠ざかって行った。その子は濡れた顔をお母さんの肩口にこすりつけて涙を堪えていた。そして、濡れた目元を首筋でごしごしとふいた。母親は少年の顔にキスをした。それから、一度、抱え直した。ぼくには逆立ちをしても出来ないことだった。太陽が水平線の向こう側に沈まんとしていた。真っ赤な世界であった。ぼくはあえて、息子を見ないようにした。
「なあ、スケボーやるか?」
母子が視界から消えた後、ぼくは赤い太陽をみながら、聞いてみた。
「うん」
と息子が言った。
浜辺の途中に、50メートルほどのコンクリートで出来た防波堤の残骸のようなものが埋もれていた。そこは地元のスケーターたちがスケボーの練習をする場所になっていた。若者たちが去った後、息子はそこでスケボーをやりはじめた。ぼくは少し離れた場所に座り、眺めていた。自分の若い頃にそっくりだった。ECHOESをやり始めた時の自分自身がそこにいた。あまりに似ているので、思わず、口元が緩んでしまった。
スケボーがコンクリートの上を走るざらざらした音がいったいに響き渡っていた。ぼくらしかいなかった。誰もいない砂浜であった。そうだ、ぼくと息子しかいなかった。
©️Hitonari TSUJI
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