JINSEI STORIES
滞仏日記「人間なんだから、と息子に言われて、号泣しそうになった真夏に」 Posted on 2020/08/07 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、「パパ。ちょっと最近、変だよ」
とすれ違いざまに息子に呼び止められた。ちょっとどころかかなり変なのはよくわかってるだろ、と返したら、うつむきながら笑っていた。
「そうじゃなく、ここ最近、一人でピリピリしてるよ」
「そりゃあ、そうだよ。車のせいで毎日大変なんだから。このあいだ説明した通り、このままだと裁判をすることになるかもしれん」
すると、息子がぼくの腕をぎゅっと掴んで、まっすぐにぼくを見つめて、こう言ったのだ。
「パパ、ぼくの話しをちょっとだけ聞いてくれる?」
ぼくはうつろな目で息子を見つめ返した。
「パパが意地になる気もちはわかるけど、そのメーカーにも、エミールさんたちにも、みんなに振り回されているけど、いい? 一番大変になるのはパパなんだよ。ぼくはパパの一番近くにいる人間として忠告をする。それはパパが抱える問題じゃない」
ハぁ、と思わず声が出てしまった。
「頭を冷やして、という日本語があるでしょ。よく考えてみてよ」
「考えたよ。でも、あまりに不条理だから」
「分かるけど、そういう問題を抱えると今よりもパパはもっとピリピリになるんじゃない? そんな車の問題のどこが重要なの? 言っちゃ悪いけど、たかが車じゃん。人間があっての車でしょ。パパが命がけで戦う相手には思えない。エミールさんとか街の連中は有難い仲間だけど、彼らは、いいかい、パパじゃない。パパがいつも朝方まで小説を書いたり、仕事をしているの、誰一人、知らないでしょ? その労力を知っているのはぼくだけだ。気やすく裁判なんて言葉で片付かないことをみんな、知るべきだよ」
「お前、今日は饒舌だな」
「そりゃあ、そうだよ。家族が溺れかけていて、助けない家族はいないでしょ?」
ぼくは、言葉を失った。真昼間にそういうことを言われて、父親なのに、号泣しそうになった。
「パパ、戦う土俵が違う。いくらだっけ? その車。何万€か、知らないけど、パパの仕事や創作はお金で買えないんだよ。そういう泥かけ試合をする意味がない。その戦う力で新しい作品を作る方が大事じゃないの? 二度とそのメーカーの車、買わなければいいだけで、勝ち負けの話しじゃないでしょ? 違うの?」
ぼくは座り込んでしまった。その通りだった。日記に、絶対負けない、と書いたけれど、エミールがいつまでも僕の傍にい続けて戦ってくれるはずもない。そこに使う労力で、残された時間に描かなければならない作品はいくらでもある。たとえ、そのお金をどぶに捨てることになっても、関係ない、ほっとけばいい。不意に、息子に救われてしまった。
「分かった?」
「ああ、分かった。お前に借りが出来てしまったな」
「パパ、世の中はバカンスの時期なんだよ。少し、休もうよ。日本人の悪い癖だと思う。一日中、机に向かって、ひきこもりだよ、それじゃあ。パパ、そんな風に生きてたら、壊れちゃうよ」
「・・・」
「夏休み、とったら? パパの大好きな海でも見に行きなよ。落ち着くよ」
「コロナが再び拡大しはじめているのに?」
「パパ、そんなこと言ったら、人間をやめるしかない。感染しないように移動して、感染しないような人のいない避暑地を選んで行けばいい。みんな、田舎に行っちゃったよ。危険なパリにいるのはぼくとパパだけだ。自動車会社の連中ももう働いてないでしょ。だから、車が紛失するんだよ」
そういえば、夏休みも半ばに差し掛かっているのに、今年の夏は、親子で、どこにも出かけていない。
「イヴァンやロマンやウイリアムたちはどうしているの?」
「みんな田舎の家で過ごしているよ。田舎の家がない人たちはジット(長期滞在用の家)を借りてる。パリから出ようよ」
残念ながら、ぼくらには田舎の家はないので、ジットを借りるしかない。
「パパ、昔は二人でたくさん旅をしたじゃん。二人切りで生きるようになってから、なんだかんだいって、ヨーロッパは二人でほとんど回ったじゃない。いやじゃなければ、一緒に旅に出るよ」
「お前が?」
息子が、ああ、と頷いた。
「パリから離れようよ。車で一時間くらい離れたら、人のいない静かな田舎町があるんだよ。ぼくがネットで探すよ。森の中とかの空気の綺麗な自然に囲まれた場所でぼんやりしようよ」
「車がない」
「あるじゃん!代車が、立派なフランス車が」
「あんな小型車で高速走るの、怖いでしょ?」
「フランスの小型車は優秀だから大丈夫だよ。計画を立てよう。とにかく、裁判はぼくが認めない。エミールさんには、ぼくがちゃんとした説明をする。パパがどんだけ神経を使って仕事をしてるのか、彼らに説明できるのはぼくだけだ。自動車会社さんにもぼくが話しをしてもいい。もう、ここまでにします、と言えばいいんだ。お金を払ってるのは、パパだから、パパがやめると言えば終わる。壊れた車をちゃんと直して、動くようになったら戻してください、とぼくが言う。その間のリース代金は払えばいい。そんなの大したお金じゃない。パパが背負う労苦に比べたら、たいした額じゃない、とぼくは思う。これは泣き寝入りじゃない。人間は生きていれば、事故にもあう。それだけのことだ、もっと大きな目標に向かうべきだ。パパは余計なことを考えないで小説を書いてればいい。違うの? 二人で海でも山でも行って、穏やかな気持ちを取り戻そう。人間なんだから」