JINSEI STORIES
滞仏日記「父として、もう何も息子に教えてあげられない寂しさ」 Posted on 2020/08/06 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、息子は、朝の8時過ぎに起きてきたけど、やっぱり「おはよう」は無しだった。「おはよう」を言わない息子に「おはよう」を言うのは癪に障るのだけど、ぼくは自分が嫌な気分で一日をはじめたくないので「おはよう」をちゃんと口にした。もしかしたら、「おはよう」と口の中で言ってるのかもしれない。聞こえないだけで。しかし、聞こえない「おはよう」は人間関係が大切な社会では通じない。根性を叩き直してやらなければならない、と考えながら、コーヒーを淹れ、普段、朝食はあまり食べないのだけど、小腹がすいたので、バケットをトースターでカリカリに焼いたやつに塩バターを塗って齧っていると、そこへ息子がやって来て、スケボーを差し出した。
「どうした? それ」
「買った。お小遣いで」
家庭内アルバイトのお金を足して買ったのだという。
「パパ、スケボー出来る?」
「昔はやってたよ」
「マジ? じゃあ、教えてくれる?」
「ああ、お安い御用だ」
ぼくは息子の後ろをついて行きながら、なんで、見栄を張ったのか、と思わず苦笑してしまった。会話がない最近、息子の方から持ち掛けられた久々のお願いだった。離婚の直後、バレーボール部に入った息子のコーチをやった時期があった。毎日、夕方、近くの公園で練習をやった。ぼくは全く、バレーの経験などなかったが、昔やっていたんだ、教えてやる、と言った。完全な嘘じゃなかった。体育の時間にやった程度の経験なら持っていた。今回と一緒だった。教えてやると言ってしまった。そういうところが父ちゃんなのである。たしかに20代の頃にバンド仲間とちょっとハマった時期があった。ええと、40年ほど前のことだ。でも、控えめにみても、教えてやるほどのレベルじゃない。息子に頼られて、ちょっと嬉しくなって、出来る、と言い切った父ちゃん。8月の太陽がギラギラと輝いていた。ぼくらは地下鉄が頭の上を通過する駐車場の一角で、スケボーをやることになった。かっこつけて転んで頭でも打ったら大ごとになるのに、とため息がこぼれた。ぼくと息子の間に真新しいスケボーが置いてあった。息子が待っている。ぼくは、さて、どうしたものか、と思いながら頭上を見上げた。頭の上をメトロが過って行った。ごわごわごわ、とぼくらはメトロの騒音に包み込まれてしまった。頭上を走るメトロのなんと間抜けなことか。
「やってみろ。まず、どのくらいの腕前か見てやる」
すると息子はスケボーに足を載せ、滑り出した。お、結構、上手いじゃん。これはもはや出番はない。こいつが小学生の頃、みようみまねでバレーのコーチを引き受けた時とは時代が違う。もうすぐ17歳になろうかという青年なのだ。悔しいかな、父ちゃんに出番はなかった。でも、あの時、息子は多分学校で悔しい思いをして帰って来たのだろう、目を赤く腫らして、バレーを教えて、とぼくに言ったのだ。それから二人の特訓がはじまった。
「どう?」
「ある程度、出来るみたいだから、パパが教えてやるべきことはあまりないかな。そうだな、あとはバランスだな。風になるんだ」
「風?」
「ああ、重心を低くして、吹き抜けていく風になる。空を飛ぶ鳥のように」
「やってみせてよ」
ぼくは笑った。大きな声で笑った。通行人たちがぼくらを振り返っていた。
昼飯を作り、「飯だぞ」と息子を呼びに行くと、ポケットに手を入れて、玄関の天井を見上げていた。水漏れで崩落し、巨大な穴が出来た壁の周辺にストリートアートのような落書きをぼくは描いている。息子はそれをじっと見上げていた。
「飯」
「ああ」
「先、食うぞ」
「パパ!」
ぼくは振り返った。
「これ、スケボーに描いてもらえない?こういうイラストをパパに描いてもらいたいんだ」
「パパにか?」
「うん、お願い」
頼まれると断れない性格だった。バレーボールの練習は息子が小学五年生から中学2年まで3年間続いた。ほぼ、毎日だった。ぼくが息子に弁当を作り続けていた時期と重なる。バレーボール部の一番へたっぴな補欠みたいな選手だったが、中学に上がると正式メンバーになり、パリ大会で、銅メダルを取った。主将になり銀メダル。そして、翌年、金メダルを取ったのだ。今はコロナで休止中だが、パリ市のバレーボール部員でもある。でも、もう、何も教えてあげられない。親の役目が少なくなった。
「はい、これで描いて」
ぼくは息子にマジックを手渡された。スケボーをひっくり返し、何も考えず、いきなりフリーハンドでササっと描いてみた。風になってほしい、と思った。何事も流れに乗ることが大事なのだ。そういう絵を描いたら、すげー、と息子が言った。
「そうか」
「うん、すげー、かっこいい。ストリートを感じる」
「そっか、感じてくれるか。だからな、風になるんだ」