JINSEI STORIES
滞仏日記「父ちゃんは激怒し、落ち着いて、と息子が言った」 Posted on 2020/07/30 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、ぼくの怒りは臨界点を超えていたし、ぼくの声は次第に大きくなって、隣人にも聞こえそうなくらいになっていた。もちろん、相手がそれを録音しているのは知っていたけれど、あまりにひどい対応なので、ぼくは自分を律することが出来なかった。すると、誰かがドアをノックした。ぼくは携帯を握りしめたまま、振り返った。息子が戸口に立っていて、パパ、と声を出さずにぼくを呼んだ。あっち行ってろよ、という顔をしたのだけど、彼は立ち去らず、ぼくを諭すようにじっと見ていた。
ぼくが電話を切ると、
「相手を攻撃しちゃだめだ。それじゃ、火に油を注ぐだけだよ」
ともっともらしいことを言った。
「そういうレベルの話しじゃない」
とぼくは興奮を抑えきれない勢いで、これまでの経過を説明した。
はじまりは五日前だった。取材に出かけたら、エンジンがかからない。前の車も同じメーカーだったので、エンジンの音から、問題がバッテリーであることが分かった。ロードサービスを呼ぶはめになった。その二日後、やはりエンジンがかからなかった。これは異常事態だ。リースで借りて4か月目の車で直前まで長距離を移動していたので、動かなくなった理由はバッテリーじゃなかった。二回目の修理工のおじさんは、電気系統ですよ、と言い切った。知り合いのカーデザイナーに相談をしたら、もうバッテリーは死んでるね、と言った。
この間、ぼくは連日、販売店に電話をしてきたが、たらいまわしにされ続けた。その上、そのメーカーの修理部門が対応すると言われ、今度はそこにかけたが、しかし、そこもうちにはわからない、と言い張った。どの担当も、結果が出たら必ず教えてね、と言う。結局、その会社の本社に電話をし、リース料を払っているのに、この対応はおかしい、と訴えた。ドイツのメーカーだったが、働いている人は全てフランス人である。電気系統が問題なら修理をするのが当たり前だし、かかる費用をあなた方が持つべきだ、と訴えたが、聞いてもらえないばかりか、代車もないし、人がいないので修理も今すぐ出来ないと言う。それが、誰と話しをしても、
「ええ、あなたの気持ちはよくわかります。自分も車を買う側の人間だから、気持ちは一緒です。必ずソリューションはあるはずだ、問題を一緒に解決しましょう」
と言い続ける、そういう風に教育されているのだ。
言葉は穏やかで、紳士的なのだけど、最終的には何ひとつ客の気持ちは汲んでくれない。リース代は払い、ロードサービスにかかった費用も返してもらえず、つまり、新車は名ばかりの、動かないのだから、詐欺みたいな状態であった。でも、息子は、ぼくの傍にやって来て、ちょっと、落ち着いて、と言った。
「パパ、ストラテジーが大事なんだよ」
ストラテジーとは作戦という意味である。
「相手はパパの声を録音している。パパが怒れば向こうの思うつぼだ。興奮しても解決はしない。パパが一方的に攻撃して、得をするのは相手なんだよ。冷静に戦ってほしい」
「動かない車をリースするメーカーなんか、聞いたことない。車が必要だって言ってるのに代車はないし、修理工はいない、っておかしいだろ」
「うん、おかしいけど、じゃあ、怒鳴って解決するの? しかも、そんな変なフランス語で文句を言えば言うほど、パパは不利になる。何年、フランスで生きているの?」
この言い方に、本当に頭に来て、携帯を床に投げつけそうになった。
「前の車も同じ会社だから、信頼関係があると思ったし、顧客を大事にすると思った。しかも、続けて借りてほしいと言われたし、故障は全部うちが補償するサービスなので、安心して乗れます、と言っておきながら、バッテリーがかからない、と訴えても知らんふり。それが一流メーカーがすることか? 同じ気持ちです、で丸くおさめようとするただの集団詐欺師でしかない」
息子は黙って聞いていた。
「でも、がんがん、文句を言っても、進展しないよ」
「じゃあ、こういう組織的な連中に泣き寝入りをしろというのか? 毎月、数百€も払ってる。これがリースじゃなくて、自分の車なら、パパだって文句は言わない。いざという時に、こっちの方が安心ですと言うからリースにしたんだ」
「必ず戦い方があるはずだから、ネットで調べたり、車に詳しい人とかに聞かなきゃ。そのためには落ち着くことだ。わかるでしょ? 相手はパパの怒鳴り声を録音しているから、裁判になれば不利になる」
「なるものか、まともなことを言ってる。実にまともだよ。だって、ぼくは客で、お金を払ってる側の人間だ。なのに、こういう気持ちにさせられている、あまりにバカげてる」
「まともが通用しない世界もあるんだよ」
その時、こいつは、フランスで生きていけるかもしれない、とぼくは思った。その一点だけは、収穫でもあった。
「人間はいろいろな状況に置かれるので、その都度、空気を見て、冷静になって、じわじわと闘うしかない場合もある。少しずつ、空気を変えていく。人を味方につけていき、全体を動かして勝利を勝ち取ることも出来る。ドイツの親会社にぼくが英語で抗議文を書いてもいい」
たしかに、息子の言う通り、ぼくはちょっと冷静になるべきかもしかない。これではらちが明かないだけじゃなく、怒るだけ損をする。事故にあったと思えばいい。この車は失敗だった、と思えばいい。
「じゃあ、聞くけど、お前はどうしたらパパの気持ちは解決すると思う?」
息子は黙って、窓の外を見つめた。
「パパ、結論から言うと、解決策はない」
「・・・」
「この人たちは最初から、全て想定済みなんだ。もしも、パパがハイエンドの顧客であるならば、しかもフランス語がネイティブに喋れて、それなりの社会的地位にある人だとする。そういう立場ならば、そういうルートを使って、抗議をして、上から話しをおろして、勝つことが出来る。でも、パパは、残念なことに組織にも入ってない、外国人の顧客でしかない。彼らは、揉めない教育を受けているから、マニュアル通りに問題を回避し、最後はパパを切るだけだ。パパが怒って、二度とその会社の車を買わなくても、その他大勢がいるから問題はない。パパが声を荒げるだけ、無駄な時間を使うことになる」
「お前、それは、最初から負けを認める情けない人間の生き方だぞ。侍のパパにそんなことはできない。あらゆる手を使って、抗議をし続ける」
「いいと思うよ、抗議したらいいけど、この話しはこれ以上、変わらない。でも、契約をしているから、パパはリースを解約できないので、3年はあの車に乗らないとならない。それか、お金を払い続けるけど、侍の精神で、車を返すか、だ」
ぼくはついに、壁を殴りつけてしまった。めっちゃ拳が痛かった。いったい、どうしたらいいのだ。この日記は残念ながら、釈然としないまま、筆をおかなければならないことになる。悔しいが、そういう時は寝るに限る。なので、寝ます。