JINSEI STORIES

滞仏日記「天罰が下った夜、ブルース・ウイルスに救われる」 Posted on 2020/07/25 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、息子に対する怒りはおさまることがなかった。なので、朝から口もきかない。昼ごはん前に、キッチンで料理をしていると息子がやってきた。もちろん、言葉などかけない。向こうも黙ってるのに、こちらからかけていては示しがつかない。すると、背後に息子の気配。ふりかえると、「ちょっといい」と洗濯機を指さして言った。どうやら、洗濯をしていたようだ。場所を譲ると、全自動洗濯機の扉をあけて、洗濯ものをとりだしながら、「今日はなに」と聞いてきたので、「知らない」と言ってやった。だいたい、「今日はなに」という聞き方がいかに無礼な訊き方か分かってない。せめて、「昼食は何ですか」と訊くべきだ。今まで、バカ丁寧に応えていた自分の責任を反省した。スパゲッティを作ったので、息子の分を皿に盛り、食堂のテーブルに置いておいた。自分はキッチンで食べた。会話もないのに、一緒に食べる必要はない。さっさと食べて、仕事場に籠った。

滞仏日記「天罰が下った夜、ブルース・ウイルスに救われる」



仕事をしていると、ドアをノックする奴がいた。「ちょっと、遊びに行く」と息子が言った。ぼくは返事をしなかった。いつもだと「何時に帰ってくる? 気を付けて行って来いよ」と優しい言葉をかけたりするのだけど、僕は怒っているので、何も言わなかった。マスクは法律でしてないとどこにも入れないので、持って出るに決まっている。「マスクしろよ」と言って「分かってるよ。当たり前じゃん」と怒られると、また腹が立つので、ほったらかすことにした。

こうやって、お互いほったらかしていても、生きていけるし、気を使う必要もないので、もっと早くからこうしておけばよかった、と反省した。ともかく、そっちがその気ならこっちもこの気でやるのが、気が楽でいい。もう、16歳だし、何でも自分でやればいいのだ。夜まで集中して仕事をした後、「たべものは冷蔵庫の中」と張り紙して、ぼくは外出をした。彼はダイエット中なので、夜はほとんど食べない。豆腐とか、野菜とか、豆類とか、健康そうなものが冷蔵庫の中にいくらでも入っている。

ロックダウンのあいだ、二ヶ月間、毎日、お弁当を作って、市内のコロナ病院にボランティアで届けていた日本人シェフ、さくらさんを取材しに行った。ロックダウンが終わり二ヶ月が経ち、さくらさんのレストランや看護師さんたちのその後を知りたかった。仕事の邪魔をしないよう、あいま、あいまでさくらさんや従業員の皆さんにインタビューを試みた。食事をするつもりはなかったのだけど、あまりに美味しそうだったので、少し、味見をさせてもらったが、とっても美味しかった。取材が終わり、スタッフとも別れ、車まで戻ったら、新車なのに、エンジンがかからない。バッテリーがあがっているのが、音で分かった。マジかよ、と思った。30分ほど、鍵を回し続けたけど、埒が明かなかった。

まず、こういう時、どうしていいのか、一瞬、頭の中が真っ白になる。絶望して見上げると、天井にSOSボタン。とりあえず、押してみることにした。すぐに繋がりマダムが出た。「こちら救急病院です。どうされました?」「え? 救急? あ、すいません。バッテリーが」「じゃあ、保険会社にかけて、フロントガラスにシールがあるから、そこに電話して」のっけから、大変なドジをしでかしてしまった。そもそも、ぼくのフランス語は、文学とか、政治のことはわかるのだけど、車のこととか、修理に関しては興味がないからか、何を言ってるのか、さっぱり分からない。保険会社に電話をしたけど、ますます何を言ってるか分からないので、仕方がなく、ここで、あの息子に助けを求めることになる。



「あの、俺」
「どうしたの?」
「いや、それがバッテリーがあがっちゃったみたいで、うんともすんとも言わないんだ。お前さ、ちょっと悪いけど保険会社に電話してくれないか」
「自分でしたらいいじゃん」
カチーン。でも、ここは怒っちゃいけない。
「したんだけどさ、なんか、偉そうなこと言うもんだから、叩き切ってやった」
「なんて?」
「それが、よくわからないから、とにかく、偉そうなんだよ」
「それ、フランス語のニュアンスが分からないから、偉そうに感じているだけだよ。20年もパリで暮らしていて、それじゃ、老後とかどうするの? やっていけるの、この国で」
カチーン。
「保険会社のくせに、あなたの保険ではカヴァーされていませんとか、言いやがる。おかしくないか、バッテリーがあがってロードサーヴィスさえ呼べない保険って。ぼくのおやじは自動車保険のプロだったけど、顧客が困った時は日曜日でも飛び出していった。フランスの保険会社はなっとらん。金をとる時だけ、笑顔で、客が困ってる時は、それは対象外です、って、冷たいし、けしからん。保険会社の意味がないだろ!」
「パパ、ぼくに怒鳴ってもしょうがないでしょ?」
ぼくは黙った。くそ、〇▽□✕✕〇▽$£¥・・・(口汚い仏語です)

結局、息子がJAFみたいなフランスのロードサーヴィス会社の番号を調べ、かけてくれた。そこの救急修車両が近くにいるらしいから向かうことになった、と息子が言った。
「140€だって」
「は? これ、新車で、まだ4ヶ月しか乗ってない。先週もお前を迎えに300キロも走ったばかりでバッテリーがあがるなんてありえない。なんで、この自動車会社が払わないんだよ。この車はリースで、壊れたら、すべて無料だって言うから、借りたんじゃないか。それをちゃんと説明したのか?」
「だから、今は、文句言ってもしょうがないんだから、とりあえず、140€払って、車直して、帰ってきなよ」
電話が切れた。カチーン。自分が情けなくて、死にたかった。

ぼくは頭を冷やすために車の外に出て、誰も歩いていない通りの先を見つめて待った。待つこと30分、ラスパイユ通りからピカピカ光る大型修理車がこちらを目指してやってくる。ぼくは手を振った。大きなアメ車が目の前で止まり、勇壮な男が出てきた。ブルース・ウイルスだった。

滞仏日記「天罰が下った夜、ブルース・ウイルスに救われる」

「あんたかい」
「ぼくです」
「バッテリーだって? こういう新車、この手の故障が多いんだ。なんでだと思う?」
知るか、と腹の中で思ったが、ぼくは外面がいいので、何ですか、と訊いた。
「つまりだな、いろいろと余計な装置くっつけるからさ、バッテリーに負荷がかかっちゃうんだ。でも、安心しな、俺が来たからにはもう大丈夫だ。よかったな」
ブルースは言った。世代が近い。そういう匂いがする。
「俺は、独り者でね、だから、気楽だし、金になるから夜の専門なんだ。この時間になると、あんたのような人ばかり面倒みている。いい車ってのはいい女に似ている。ちょっと機嫌損ねると動かなくなる。そこで、俺の登場だ。おっと、眼鏡を忘れた」
「ポケットに入ってますよ」
「ああ、これだ。若く見えるだろうが、俺は58なんだ。最近、目が辛くなった」

滞仏日記「天罰が下った夜、ブルース・ウイルスに救われる」

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マシンガンのようにしゃべり続けるので、怒りが収まってきた。58歳か、年下なんだ。なんか、癒される。この人でよかったのかもしれない。
「こんなことで挫けちゃだめだ。よし、エンジンかけてくれ。いまだ」
車に乗り込み、エンジンをかけると、ぶるるん、と動いた。生き返った気分になった。
「ありがとう」
「これが俺の仕事だから、当然だよ。そうやって、喜んでもらうのが俺の生き甲斐でもあるんだ」
「なんか、ブルース・ウイルスに似てるって言われませんか?」
「ええ? そうかな、でも、前に、何度か言われたことあったけど」
「ここんとこ、落ち込んでたんですけど、あなたに救われました。新車なのに、エンジンかからないし、保険会社に相手にされず、その上、バカ息子は生意気で」
「な、おい、家族のために生きる。それでいいじゃないか。俺は一人者だけど、こうやって世界は繋がってる。こうやってエンジンがかかるだけで、俺と君と君の息子さんが、そして世界が繋がった。いい夜じゃないか」
ぼくは泣きそうになった。
「あなたはヒーローです。すいません。一枚写真を撮らせてください」
「ああ、いいよ。俺の車の前で撮ろう」
ブルースはポーズをとった。この写真は日記に使わせてもらおう、と思った。

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