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滞仏日記「息子がバイト代の前借りをしたい、と言い出した」 Posted on 2020/07/22 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、息子は休まずこつこつ家庭内アルバイトを続けている。窓拭き、床拭き、そして、食器洗い、順調に家の仕事をこなしている。ただし、新しいルールが出来た。自分の部屋の掃除とトイレ掃除だけはアルバイトに入らない、というルールだ。さらに、自分の部屋とトイレ掃除を怠った場合はアルバイト料が貰えなくなるという違反付きで、これは名案であった。自分の部屋を片付けることが付帯したことで、彼はより多くのことを学ぶことになった。トイレに関しては、お風呂はパパがやるので、トイレは君の仕事という風に分業したら、そりゃあそうだよね、ということになった。アルバイトで家事の手伝いをしたことで、その家事の意味を彼は知ることが出来たと言える。
「パパ、実は相談があるんだよ」
キッチンに顔を出すと息子が皿洗いをしながら、こちらを見もしないで言った。

滞仏日記「息子がバイト代の前借りをしたい、と言い出した」



「なんだ、言うてみい」
「アルバイト料だけど、前借りしたい」
がぴーーーん、とあまりに驚いたので、自分の心が叫んでしまった。顎が外れて落っこちるような感じになったではないか…。
「前借り? どこで覚えたんだその日本語」
「ネットで検索したら出てきた」
「っていうか、お前、まだアルバイトはじめて4,5日しか経ってないじゃん」
「うん、分かってる。だから、前借りなんだよ。長年の親子関係からぼくが約束は必ず守る人間なのはパパもよく知ってると思うので、そこを信頼してもらい、一週間分前借りしたい」
変な言い方をするので、噴き出してしまった。
「何に使うんだ」
「明日、アレクサンドルとトマと3人でドーヴィルまで遊びに行ってくる。安いチケットで片道20€、往復40€かかるんだ。それにご飯とか飲み物とか…」
夏休みなのに、どこにも行けないので、これは仕方がないかな、と思った。電車代くらい出してやりたいけど、甘やかすときりがないので、前借りを認めることにした。
「いくら?」
「電車代とご飯代かな」
「じゃあ、60€だね」
「50€でいいよ。助かる」
「オッケー、じゃあ、50€前渡しする。これを君の今月の報酬から差し引く」
ぼくは紙と鉛筆を持ってきて、息子に差し出した。何? という顔をした。
「借用証書っていうんだ。借りた分をきちんと書いておくと忘れない」
「え、あ、うん、わかった」
こういうのはちゃんとしておいた方がいい。大人になるための勉強である。息子が書いた借用証書は冷蔵庫に磁石で張り付けておくことにした。

滞仏日記「息子がバイト代の前借りをしたい、と言い出した」

うちの子は、物知りだし大人びた思考を持っているが、実はまだとっても子供である。そこらへんのところは親なので、よくわかる。もっともらしいことを言うけれど、どこかファンタジー染みてたりする。理想が物凄く高いのだけど、現実を知らない人間の理想なので、父親としては、はいはいはい、という感じになる。環境問題でも、政治的発言でも、親子関係においても、恋人や友人についても、一家言あるのはいいことだが、地に足がついてない。でも、それは当然なので、鼻っ柱をへし折るようなことはしない。ぼくはしないけど、外でへし折って貰った方がいい、と思うくらい、あまりに弁が立つので、頭に来ることばかり。



オペラにラーメンを食べに行った。その行き帰り、食事の間、ずっとぼくは息子の押し付けるような意見を聞かされることになった。
「だからね、ぼくは嫌いな数学や物理は選択しなかった。好きじゃないものを好きにはなれないから、でも、そうしたことで、ぼくは主流派じゃなくなった。就職に有利な大学にはもう進めない。たぶん、今時、文系を選択しても、やれる仕事は限られてるんだ」
「じゃあ、どうする? いったい何をやる? 音楽か?」
「うん、音楽はやる。音楽と大学はどっちもベストを尽くすけど、どちらも、自分が好きなことだけをやる。だから就職に有利な大学には進めない。音楽学校にもいかない。独学でやる。パパ、大事なのはコネクションなんだ、今の時代は」
息子は普段、返事もろくに返さない大人しい子なのだけど、一度、火が付くと人間が変わったみたいに自分の主張を強く押し出してくる。
「ぼくのようなミュージシャンを専門用語でビートメーカーという。サウンドプロデュースのようなことをする、音を作る人。パパにはわからないと思うけど、今の時代は音源を作って、それをみんなが利用する。誰かが作った音源をアーティストたちが利用して自分の楽曲に仕上げていく。そのベースの音源を作るのがビートメーカーの仕事なんだよ」
たしかに、何を力説しているのか、よくわからなかった。どうやら、息子はそのスペシャリストらしい。息子の場合は、自分も歌を歌うので、アーティストとビートメーカーの中間といった感じ。息子が言うコネクションとはフランスの音楽シーンで活躍する連中が彼の音を使って自分の音楽を表現することのようで、聞かせてもらったけど、確かにぼくのやってきたものとは全然違う。息子はすでにアルバムを一枚だしていて、今二枚目を制作していて、先輩たちに可愛がられている、らしい。その辺のことについては、何も教えて貰えないので、こちらも聞かないようにしている。
「コロナだけは気を付けてくれよ」
「分かってるよ、みんなリモートの世界で出会ってるだけだから、大丈夫」
で、大学は理数系を諦め、自分が好きな哲学とか歴史を選択した。理数系を捨てた時点で就職には不利になるみたいで、でも、彼はどんなに説得をしても、自分は、嫌いなもの、興味のないものは学びたくない、と言い張る。仕事や将来に関しても一緒で、やりたくないものには感情移入が出来ない、と言い張る。好きなことでなら、一番を目指せるけど、興味のないことでトップにはなれないし、目指したいとも思わない、と息子は言い張った。

滞仏日記「息子がバイト代の前借りをしたい、と言い出した」



「じゃあ、好きにやればいいじゃん。パパので出番はないでしょ。そこまで決めてるなら。でも、それなりの年齢になった時に、安定した収入も得られないかもしれないけど、覚悟は出来てるんだよね」
「パパ」
息子はサンタンヌ通りの札幌ラーメンというお店のテラス席で味噌ラーメンを頬張りながら、静かに、言った。
「確かに、覚悟は出来ている。でも、一つだけ言ってもいい」
「ああ、いいよ。好きなだけ言えばいい。ずっと聞いてるよ」
「やりたくないことをやって大金持ちになるより、好きなことだけをやってたとえぎりぎりの生活しかできなくても楽しく生きる方が僕にはあってる。自分のことを誰よりもよく知ってるのは僕自身なんだよ。好きなことの世界で一番になればいいじゃない。もし、お金が無くて貧しく苦しくてもぼくは胸を張っていられる。でも、パパの脅しに負けて苦手な仕事について毎日ストレス抱えて生きたらきっとうつむいて歩くことになる。稼いだお金で美味しいステーキを食べれたとしても、ぼくはきっとそれを美味しいとは思わない。パパがたまに作ってくれる夜食のおにぎりが世界で一番美味しいのを知っているんだから」

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