JINSEI STORIES
滞仏日記「息子が働きたいと言い出した」 Posted on 2020/07/17 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、ランチが終わり、ソファにふんぞり返って寛いでいると、息子がやって来て、ちょっといい? と言った。ぼくは半身を起こし息子と向かい合うことになる。ちなみに、今日のランチはかつ丼であった。どうしてもかつ丼が食べたくなって、奮闘して作ったのだけど、ダシのしっかり染みた最高に美味いかつ丼が出来上がった。日本の味である!
「どうした?」
とぼくが言うと、息子は
「お金が必要なんだよ」
と言い出した。
「毎月、お小遣いあげてるだろ? あれじゃ足りないの?」
フランスの平均的な高校生のお小遣いを調べ、毎月月初めに息子に30ユーロ(3600円)を渡している。
「ウイリアムとかアレクサンドルとご飯を食べに行くと、だいたい毎回10€くらいかかるんだ。みんなでランチを食べるんだけど、そうなると3回行ったらもうなくなってしまう。本も買えないし、30€じゃ、Tシャツ一枚買えない。お小遣いが少ないと言ってるわけじゃないよ。中学生までは、友だちとレストランに行くこともなかったけど、高校生になって、誘われることが多くなった。子供の付き合いってのがあるんだ。行かないわけにもいかなくてね。でも、ぼくはいちばんお小遣いを貰ってない方で、ウイリアムとかぼくの倍は貰ってる。それはちょっと貰い過ぎだと思う。さらに、彼は親戚が多いからみんなにクリスマスや誕生日にお金を貰っている。アレクサンドルもたくさん親戚がいて貰えるけど、パパ、考えてみて、ぼくにはお小遣いをくれる親戚が一人もいない。恒ちゃんもババも、みんな日本なんだもの。お年玉すらもらえないんだ」
「そうか、一理あるね。じゃあ、お小遣いを増やそうか? 」
「いや、それはルールだから、30€でいいよ」
フランスは日本よりも物価が高い。たとえばカフェの平均的なランチメニューが15€くらい、日本円で1800円くらい。マクドナルドだと一人千円くらいは必要になる。それで7€である。ワンコインじゃ何も食べられない。
「じゃあ、どうする?」
「アルバイトをしたい」
「バイト? 」
「うん、パパだってぼくくらいの時、バイトしてたでしょ?」
まさに、ぼくが生まれてはじめてやったバイトは新聞配達だった。高校1年のことだ。柔道部の顧問だった人が函館西部地区の有名な新聞屋の社長さんだった。夏休みの間だけやってみろ、と言われ、新聞少年に憧れていたので一月間、やったのだけど、配達する家があまりに多いし、早起きが辛かった。坂道が多い函館の旧市街をぼくは新聞を抱えて走った。柔道の練習にもなって足腰は相当鍛えられたけど、思っていた以上の重労働であった。でも、函館山の中腹から見た津軽海峡の金波銀波の美しかったこと。朝日が昇り、輝く海原とか白みだす空の色が今も頭に焼き付いて離れない。辛かったけど、楽しい思い出でもある。
「でも、フランスにはバイトないだろ?」
そもそも、フランスにはアルバイトという言葉が存在しない。日本の高校生のように自由に働ける環境も場所もない。大学生になると家庭教師とかベビーシッターが出来るようになるのだが…。
「うん、だから、うちで雇ってもらいたいんだ」
「うちで?」
「さっき、アレクサンドルから聞いたんだけど、彼は掃除とか食器洗いとかリサの仕事の手伝い(今はマスクを作って売っている)などをやって月に200€(2万4千円)近く稼いでいるんだ」
ぼくはちょっとびっくりした。リサ、そんなにあげちゃダメじゃんか!
「200€かぁ、ちょっと貰い過ぎじゃないかな」
「うん。アルバイト出来たら、30€のお小遣いはいらないから」
「それはダメだ。30€はお前の権利だからだ」
実はロックダウン直前まで、週に一度家政婦さんが来てくれていた。その人は下の階の家政婦さんで、週三回下の家に来るので、週一回程度だったら手伝えるけど、ということで主に床拭きとか窓拭きのような重労働だけやってもらっていたのである。ところが、ロックダウン開けに下をクビになってしまった。本人は10年も務めていたのに不意に解雇されたことがショックだったようで、もううちには来れないということになった。下の階の人はきっと新型コロナが怖くなったのだ。これも、コロナのせいであった。
「ほら、ベルタさんもやめちゃったし、パパ、人手が足りないでしょ?」
ぼくは笑った。
「できんのか? 今まで掃除とか一度も手伝ったことないじゃん?」
「アンナの田舎の家でぼくはたくさん働いたんだ。もう、ベッドメーキングだって出来る。アレクサンドルは、食器洗い、床拭き、窓拭き、掃除洗濯、トイレ掃除、風呂の掃除、リサのアシスタントまで、なんだってやってるよ」
家のことやって200€はどうかな、と思ったけど、お金の価値観を勉強するのには悪くない、と思った。10€稼ぐのがどんなに大変か知ることは確かに勉強になる。よし、やらせてみようと思った。そこで早速ぼくらはバイトの細かい条件について話し合うことになる。
「毎食後の食器洗いは一食分で1€、どうだろう? 昼と夜の二食分×7回で14食分の食器を洗う、一月だと約60食になるね」
食べ終わった食器を全部キッチンに運び、水で皿を軽く洗い、食洗器に入れて、スイッチを押すまでを一回と取り決めた。
「いいよ。OK」
「窓拭きと床拭きは重労働だから、それぞれ15€払う。窓は6か所、ガラス窓付きのドアが6カ所、これに廊下の窓とキッチンの窓、風呂場の窓もある。床拭きは、サロン、食堂、玄関、仕事場、子供部屋、寝室、キッチン、廊下と、相当な重労働だよ、大丈夫? 窓拭きと床拭きは月に一度で十分だから、食器洗いとこの2つで月に120€になるよ。すごいね」
息子は嬉しそうな顔をした。でも、ぼくは続くとは思ってない。きっと途中で根を上げ、やめるのじゃないか、と思っていた。
「じゃあ、手始めに、さっき食べたランチのお皿がキッチンに積まれたままになってるから、それからやってみて」
「ありがとう。頑張るよ」
息子は笑顔でキッチンに行った。水の音が聞こえてきた。ちょっと心配だったので、恐る恐る様子を見に行ってみたら、スポーティファイで音楽をガンガンにかけて、食器を洗っては、食洗器に入れていた。どこまで続くかわからなかったけれど、でも、労働の厳しさを知ることは人間にとって必要なこと。息子が頑張るなら、ちゃんとお金はあげないわけにはいかない。それに、息子が働いているあいだ、ぼくもちょっと休めるし、一石二鳥っということになる。とりあえず、投げ出すかもしれないので、まずは、お試し期間、のはじまりはじまり。
やれやれ。これで、よかったのだろうか…。