JINSEI STORIES
滞仏日記「独りぼっちのサマータイム、なんにもない日の盛りだくさん」 Posted on 2020/07/07 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、息子の世話をしないでいいので、ぼくは自由だった。何をしてもいいぞ、好きなものを食べていい、君は自由だ、と声を張り上げて午前中はずっとベッドの上でゴロゴロして過ごした。昼はレストランに食べに行くことも出来る。なんならママ友とか誘ってもいい。パパ友でもいいけど、パパ友だったらアペリティフだろうか? ママ友もパパ友も誘って、ディナーパーティでもいい、なんだってできる。息子のご飯の心配をしないでいいだけで、こんなにウキウキ出来るんだ、と思ったら、口元が緩んでしまった。それで、いつも日記に登場してくるママ友軍団に「ランチでもどうですか? ディナーでもいいですよ」とメッセージを入れてみた。すると、まもなくして「仕事中よ」「子供たちにご飯食べさせないと」「用事があるの、残念」「今日は彼氏とランチ」「南仏でバカンス」と残念なことに誰もあいてなかった。そこで、パパ友たちに「アペロでもしないかい?」と爽やかなメールを送りつけてみた。男同士の友情を深めるのは素晴らしいことだ。こういう機会じゃないと飲めないし。まもなくして「仕事中だよ」「今日はダメなんだ、残念」「バカンスに入ったから田舎にいるんだ」「子供たちの面倒をみないとならない」「今日は食事当番なんだ」「妻とデート」と、こちらも惨敗であった。まあ、今日の今日、空いている人間なんかいないか、まあいい、一人でやれることをやってこの自由を楽しもう。さあ、何をしよう。何を…。
とりあえず、友だちの田舎の家に滞在中の息子に、「Ça va?」(元気?)とメッセージを送ってみた。「oui」とそっけない返事。この子はとにかく返事を戻さない。昨日も「ついた?」と心配をしてメッセージ送ったのに、「うん」だけだ。マカロンを持たせたのだけど、好評だったかどうかも返事なし、出かける前に「どんな感じの家で、どういう生活か、ちゃんと報告してくれよ」と言っておいたのに、連絡なし。それは今日に始まったことじゃない。
とりあえず、外食はやめにして、冷蔵庫を覗いて、あるもので、人参、レタス、モヤシ、ズッキーニ、豚肉、中華麺があったので、あ、ちょっと暑かったし、冷やし中華ぽいものを作って、窓際で食べることにした。悪くない。晴れていたし、気持ちいい風が吹き抜けていく。一人だ、せいせいする、と呟き、一口麺を食べたところで、ピンポン、とドアベルが鳴った。「お、誰か来た。やった、お客さんだぁ」
ドアを開けると、工事業者っぽいおじさんが工具箱を持って立っていた。あ、鍵屋さんだ。昨日の日記にも書いたが、水漏れのせいでドアがゆがんで鍵がかからなくなっていたので、管理会社に「大至急直すように」と怒りのメールを送り付けていたことを忘れていた。おじさんはいい人だった。半年で5回の水漏れ、ドアまで開かない。見てくださいよ、天井は崩落しています、と肩を竦めながら訴えて、書きかけの天井画を見上げた。「LOVE BIRDS? いいね」とおじさんが褒めてくれたので、ぼくは気分が上がって、「これはコロナ禍の後の世界を描こうとしています。半年かけてこの天井びっしり描くんですよ」と天井画の構想を片言のフランス語で熱く語ったのだけど、返事が戻って来ないので振り返ったら、おじさん、ぼくに背を向け、ドアの鍵の修理をはじめていた。おじさん、ジーパンが下がっていて、チラッと、ハンケツだった。
昼食後、ぼくは少し仕事をした。暇だったので、過去の日記を読んでいたら、「WHOのバカ」というのがあって、読み返したら、ロックダウン直前、3月11日の日記で、この日、WHOが「パンデミック宣言」をした日だったが、ぼくはテドロス議長があまりに行動が遅くこのままでは世界が大変なことになると思って抗議の記事を書いたのだけど、あっという間に、その時心配した通りの世界になってしまった。その日、3月11日、あの記事を読んだWHOの関係者と思われる人たちから、抗議のツイートを受けることになる。その中には「フランス語も英語もろくに喋ることのできないあなたにいったい世界の何がわかるの」という痛烈な批判もあった。仏語の件に関してはいつも息子にバカにされているので、グーの音も出なかった。でも、テドロス氏とWHOが宣言を早く出さなかったがために、今日現在50万人以上の人が死んでいる。イギリスが一週間早くロックダウンに入っていたら4万人の死者は半分で済んだと言われている。WHOが一月早くパンデミック宣言を出していたらと思うと本当に残念でならない。大勢の命を救えたかもしれないのだから。ところが大勢の命が奪れる事態になってしまったのだから…。
ぼくを非難した人は、きっとWHOで働いている人たちなのだろう、正義感の強い人で、一生懸命途上国のために頑張ってきたのだろう。だから、「現場を知らないあんたに何がわかるの」という気持ちでぼくに文句を言ったのだろう。その人や、途上国で頑張ってるWHOスタッフを批判するつもりは一切ない。でも、テドロス議長体制には大きな問題がある。歴史がきっと明らかにするだろう。その一方で、WHOは必要なのだ。なぜなら、アフリカなど発展途上国での感染拡大が今後大きな問題になる。アフリカを救える組織が必要なのだ。それはWHOしかない。このパラドクスに人類は苦しんでいる。
腹が立ったけど、うちの母さんはよく言った。腹が立ったら、横になって寝たらよか、そしたら、腹が立たなくなるとよ、と。ぼくは昼寝をした。夢の中で、息子が自然の中で遊んでいた。ぼくは牧人のように、遠くから子供たちを見守っていた。ぼくは微笑みながら目が覚めたのだ。一日というものはなんて長いのだ。やるべきことがないということのなんと退屈なことだろう。一人なので、買い物に行く必要もないし、なんだったらご飯を作る必要もない。
ちょっと仕事をしてから、行きつけのカフェにアペリティフに出かけた。テラス席の端っこに案内され、ぼくはその席を温めることになる。気持ちのいい夕刻だったので、ロゼワインに氷を入れたピシーン(プールと呼ばれる飲み方。美味いんだ、これが)を注文した。夏はほぼ、これしか飲まない。美味しい。子供の世話から解放され、氷を突き出した唇で子供みたいに触りながら無邪気に飲んでいると、隣に男の人が座った。オレンジ色の革ジャンを着たダンディな紳士である。髪の毛は油でべっとりと後ろに寝かせつけてある。みんな道路側をむいて座っているのに、なぜか、その人はぼくの斜め前に座った。そして、ぼくを明らかに見ている。小さな氷の塊を口に入れたのを見られたのかもしれない。恥ずかしいので、すました顔で、遠くの空を見上げていた。ところがその人、いつまでも、視線を逸らさないのだ。チラッと見ると、目が合って、ニコッと微笑まれてしまった。え? なんかやばいかも。あのぜんぜん違うんです。女好きですし、子供もいるんです、と言いかけたけど、言葉が出なかった。テラスの一番端なので、逃げられない。この状況は結構、やばい。仕方ないので、ぼくは苦笑してしまった。すると、その人は、「君、一人?」と聞いてきた。ごめーーーーん、違うんだってばぁー、ぼく、若く見えるけど、還暦なんだよー。息子が旅行に行って今独りぼっちでね、だから、あの、〇§±ΔΘΣΛΦ□▽∞・・・新しい世界、つづく。