JINSEI STORIES
滞仏日記「ふと思いつき、ぼくは今から旅に出ることにした」 Posted on 2020/06/23 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、長いロックダウンで疲れ切ったぼくは人間性を回復する必要があった。朝から晩まで掃除洗濯、買い物に料理をやり続けてきた。ぼくはボロボロだった。今から一時間前に目が覚めて、窓の隙間から朝の空を見上げながら、魂がすり減っていると思った。そしてこのロックダウンのあいだ、ぼくは魂を削るように長編小説を書き続けてきた。1月から毎日、1日に10時間~15時間は机に向かってきた。去年の春から書き続けてきた小説で、一度は書きあげたけど、コロナ・パンデミックになってから、この時代の空気を入れ込むために、頭から書き換えた。二倍の労力を要した長編小説である。昨夜、編集部に全ての原稿を送りつけたので休むなら今しかない。不眠不休でやってきた。太陽を追いかけたいと思った。今から30分前に寝ている息子を起こして、「旅に出てもいいか」と打ち明けた。息子はベッドに腰かけ、頭をかきながら、立ちすくむぼくを見上げ、小さく頷いた。「パパはずっと休みなしだ。ぼくの面倒を見続けてきた。パパ自身を見つめ直さないと死んじゃうよ。ぼくのことは心配ないからふらっと海でも見てきたら」と言ってくれた。毎度のことだけど、この子には救われる。「ぼくの学校は9月までないから、最悪、9月までに戻って来てくれたらいいよ」ぼくはふきだした。息子も笑った。
そして、今、ササっと旅の準備を終わらせ、この日記を書いている。フランス時間の6月23日、朝の9時半だ。どこへ行こう。快晴であった。7月頭に文芸誌で小説が出る。文庫とエッセイ集も7月に発売になる。全部、書きあげて編集者に送りつけた、あとはメールで校正などは出来る。DSはスタッフに任せて、笑。ロックダウンが解除され一月とちょっとが過ぎた。100キロ以上の移動も出来るようになり、カフェはもちろん、ホテルや民宿もオープンしている。夏休みに入る前の今がチャンスだ。さ、どこへ行こう、と思った。そう考えると、うきうきしてきた。寝袋、寝具、着替えなどを車に運んだ。ロックダウンの最中、ほとんど動くことのなかった小さな車に荷物を詰め込んだ。ぼくはウキウキしていた。朝からやっているスーパーで冷蔵食品などを大量に買い込んで、冷蔵庫にしまった。息子がやってきたので、お金を少し手渡した。冷蔵庫の中の食料をみせた、足りないものは自分で買って食べろよ、と言った。
「どこ行く気?」
「わからない。とりあえず北上して海まで行き、その先は青空と相談してみる。宿はネットでとれるし、最悪は寝袋で車中泊する」
「いいね。気を付けて。もう若くないなんだから、無茶はしないように」
「オッケー」
そして、ぼくはもうすぐこの原稿を日記にアップし、それからパリから脱出するのだ。ウキウキする。コロナウイルスがこの世界の価値観を変えてからはじめての旅になる。目的のない本当に行き当たりばったりの旅である。ぼくを待ち受けているものは何だろう。カメラとパソコンとギターと好きな本を数冊追加で鞄に詰めた。頭の中には青い空とどこまでも続く青い海が見えた。どこでもいい。都会から離れて、人の少ない田舎に向かいたい。広がる畑が見えた。聳える森も見えた。その森の中をどこまでも続く一本の道があった。人間は自由に生きることが出来る。出来るはずだ。時間は作るものだ。数日、家事から解放されて、自分のためだけに生きる数日があってもいいだろう、それくらい許されるだろう、と思った。ぼくは主夫の潜水服を脱ぎ捨てて、半ズボンに履き替え、スニーカーをはいて出かける。カモメや燕や鹿や羊を探して荒野を車で突っ切ろう。半島の突端で車をとめて、誰もいない岬で大声で歌んだ。沈む夕陽に手を振りたい。ぼくは誰にも支配されないぼくという人生を生きている。人間性の回復だ。ぼくの中の小さなルネッサンスが始まる。よし、出かけよう。行ってきます。あなたに語り掛けるような旅日記の始まりである。
フランス時間、6月23日、午前9時半、出発。