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自分流塾「時間は流れているという固定概念はどこからやって来たのか」 Posted on 2023/04/13 辻 仁成 作家 パリ
腕時計をしている人ほど、時間にルーズだったりする。
そして、時間が無い、と誰かが言う。
この時間という尺度によって、人間は奴隷のように生きざるを得なくなっている。
社会の中で生きていくためには誰もが時間を無視することが出来ない。
会社に遅れないために、学校に遅刻しないよう、誰もが急いでいる。
人間を急がせるものが時間である。
人々は腕時計をし、置時計を見て、パソコンや携帯の時計機能とにらめっこし、その時間に合わせて行動をする。
人間がどんなに時間に縛られているのかは明白である。
集団社会というものを回していくために時間が必要であり、約束を守るためにも時間が不可欠だからである。
一日や一年を規則正しく生きるために欠かせないのは時間であろう。
しかし、この時間のせいで、人間はがんじがらめにされ、苦しくなることも多い。
時間に追われ、時間に間に合わせるために急がないとならないのだ。
ぼくは物心がついた頃から今日まで、腕時計をせずに生きてきた。
冗談で腕に巻いてみたことはある。
でも、なじまなかった。
いったい時間とは何か。
紀元前3500年ほど前、古代エジプトで人間は日時計によって時間を意識するようになった。
神殿なんかにあったオベリスク(方尖塔)も日時計の役割をしていたと言われる。
現在、「時計回り」とよく言われる、右回りにいくと数が増える時計の原理は、日時計が最初に作られたのが北回帰線以北で、常に右回りで影がぐるっと一周したことに始まる。
けれども日時計は曇ったり雨がふると時間が分からなくなるので、古代ギリシャの時代になると水時計(クレプシドラ)が発明された。
あのプラトンは水時計を使って世界初の目覚まし時計を考案している。
しかし、水時計は正確さに欠けた。
その後、水時計は中国に伝播され、ここで目覚ましい改良が加えられ、さらに何世紀もの時間が注ぎ込まれ、水時計は世界各地でどんどん進化を繰り返し、正確な時を刻むように作り替えられていった。
11世紀、中国の宋の天文学者が世界で初めていつまでも動き続ける天文時計を作った。
同時代前後してイスラムの天文学者らもやはり天文時計を作っている。
そして中世ヨーロッパで機械式時計が使われるようになり、これは宗教活動と呼応し普及した。
そして、15世紀になると時計塔が都市に出現し、人々はその時刻を見上げて、生活を規則正しく送るようになった。
時計塔が出来て人々がその時間によって管理されたことで、社会というものがより規律正しく動くようになり、宗教活動もそうだが、貨幣経済も時計塔を中心に発達することになる。
時間が人間を強くコントロールするようになる。
そして個人用の時計が広まるのは16世紀以降のことである。
面白いことに、18世紀、フランス革命期のフランスでは、一日を10時間に、一時間を100分としていた。
1801年までなんとフランスは10進法だったのである。
時間に支配されない生き方をすることは、むしろ人間の可能性をより拡大させる行為なのである。
だから、ぼくは腕時計をしないのだ。
生まれてからずっと、腕時計をせずに生きている。
ぼくの腕時計は机の上に永遠に置かれている。それを身に着けることはない。
人間を束縛するこの装置の存在があまりに滑稽で、同時に、芸術的なので、ぼくはそれをせずに、そこに置き、ひたすら眺めているのである。
時間から自由になるための、ぼくなりのささやかな、反抗なのである。
※ ぼくが持っている腕時計は、短針も長針もない。一つの針がゆっくりと冗談のように動いている。これを見つけた時、ぼくは嬉しくなった。
時間はこのように人間が長い年月を使って考案した尺度ということが出来る。
天体の運行に関係し、宗教や経済と結びつき、人間生活の基準となった。
時間はご存じのように過去から未来へと不可逆的に流れているとされるが、それを裏付けるのが時計ということになる。
面白いのは人間だれ一人、この時間概念に疑問を持つ者がいない。
長い歴史の中で生まれたルールだから、それが当たり前と思い込んでしまっている。地球は丸いという概念と同じだ。
そこを疑う者は少ない。
しかし、あくまでも尺度なので、それを受け入れる人間がどういう基準を持ってその尺度を捉えるかで、この尺度そのものの意味も変わる。
実際には、誰もが、この時間という概念をコントロールできるのに、それを最初から放棄してしまっているのも事実だ。
そのせいで人間はみんな同じような速度で老けていく。
老化は人間が同等に決めてきた老齢基準を受け入れたために起こる退化に過ぎないのに…。
時間をコントロール出来れば、というのか、時間に支配されなければ老化も退化も遅らせることが出来るのではないか、と思うし、生きている間の実行可能域が増えるはずではないか。
時間は過去から未来へと流れるものではない。
このことは長年、ここで書いてきたことだけど、時間は流れてもいないし、動いてもいない。不可逆的な運動をするものでもない。
時間は永遠という一点である。
posted by 辻 仁成
辻 仁成
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作家。パリ在住。1989年に「ピアニシモ」ですばる文学賞を受賞、1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。ミュージシャン、映画監督、演出家など文学以外の分野にも幅広く活動。Design Stories主宰。