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滞仏日記「変わらぬ世界にて」 Posted on 2020/06/06 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、横田めぐみさんはぼくよりも5歳年下なのである。当時、他人事ではなかったし、ショッキングな事件であった。めぐみさんが拉致されてから40年以上が経っている。めぐみさんのお父さん滋さんが今日、お亡くなりになった。二人がもう再会出来ないのだと思うと、涙が出る。今もめぐみさんは北朝鮮で元気で、家族と過ごしているはずだ。聡明なお子さんだったというから、北朝鮮でも仕事をされているかもしれない。お子さんがいるようなので、子供がいるとその子のために親は生きるから、日本に帰りたいと思いながらも、複雑な思いだろうなぁ、と思った。残された早紀江さんのことも心配だ。滋さんと早紀江さんの二人はずっとぼくの中での日本のお父さんお母さんのイメージであった。知的で、強くて、子供を諦めないで、あゝ、やっぱり涙が出る。滋さんのご冥福をお祈りしたい。そして、一日も早くめぐみさんを残されたお母さんの元に帰してほしい。その一方で、まずはどういう形であれ、めぐみさんが生きていて家族と幸せであれば、と思ったりもする。



そういう意味じゃ世界は何にも変わらない。40年以上も拉致問題は解決出来てない。アメリカの黒人公民権運動もぼくが子供の頃には激しかった。でも、いまだにアメリカでは黒人が差別され、虫けらのように殺され、大規模なデモが起きている。今日、マノンとニコラが「いつも美味しいものをごちそうしてくれるからお礼に」とフランボワーズのケーキを持ってきてくれた。その時、14歳のマノンが「Black Lives Matter」(黒人の命を守れ)と書かれたTシャツを着ていたので「どうしたの、それ?」と訊いたら自分の家の窓辺の写真を見せられた。それがこれである。マノンが自分で描いて、貼ったものらしい。

滞仏日記「変わらぬ世界にて」

「ムッシュ・ドロール、これは私たち子供たちの願いなんですよ」とマノンが言った。ニコラはきょとんとした顔でケーキを食べていた。すると、マノンがこう続けたのだ。
「 Notre génération est archi ouverte, archi tolérante! Pas de couleur, pas de genre!(私たちの世代はとてもオープンで寛容です! 色なし、性別なし!)」
最後のgenreというのは種類のことだけど、息子がやって来て、
「パパ、最後のパ・ドゥ・ジャンルというのは種類無しじゃなくて、性別は関係ないという意味なんだよ」
と教えてくれた。この言葉は学校でも教えられているようだ。
「今の時代の僕らの世代には黒人や性別で差別をするというパパたちの時代の人にあった差別意識、思想はないんだ」
と息子が言い、二歳年下のマノンが、そうなんです、と力説した。
「差別をしているのはいつまでも変わろうとしない大人たちなのよ」
変らない世界だけど、一方で、いつも変えようとするのは若い人たちだった。そこに小さな救いがあった。そして、もう一つ変わらなかったのは、年配の政治家の言葉遣いである。



「民度」という言葉は作家的に言わせてもらえれば、もっとも使う時に警戒を必要とする言葉である。なのでぼくは滅多に使わない。そもそも「民度」という言葉は定義が不確かで非常に意味が曖昧なのだ。本来の意味とされるのは、特定の国とか地域で生きる人々の生活程度とか、知的、教育的、文化的文明的水準や、その行動様式の成熟度などを指すのだけど、文中に登場するとだいたい「低い」「高い」という形容詞がつくことで比較の性質が強く出てしまう。その場合、どちらかが貶められる傾向に偏る。なので大臣などの国を代表する役職にある人が、コロナ感染症による各国の死者数の差を巡り「民度のレベルが違う」などと発言するのは危険だ。麻生大臣のもとに海外から「なぜ日本は死者数が低いのですか」と問い合わせがあったようだが、「お宅とうちの国とは国民の民度のレベルが違うんだ」などと発言したようで、「みんな絶句して黙った」と話されていたけれど、これは違う意味で外国の方に衝撃を与えたということであろう。どうしても国民の協力に感謝をおっしゃりたいのであれば、「我が国の国民はマナーがいい」とか「衛生観念が高い」などの言葉を使うべき。言葉は使い方を間違えると戦争のきっかけになり、弱い人を死へと追い詰める。政治をつかさどる人には言葉を大事にしてもらいたい。けれども、これもなかなか変わらない。みんな言葉で墓穴を掘っていく。

こうやって変わらないのは人間たちだけで、実はこの地球の方は大きく変動している。地球温暖化の問題はこの星に物凄い衝撃をもたらすだろう。きっとぼくらが考えている速度を超える勢いでまもなく押し寄せてくるはずだ。地震や台風の襲来など、想像もしたくないけれど、十分にあり得るから恐ろしい。心の準備は出来ているだろうか? 

滞仏日記「変わらぬ世界にて」

※これはマノンではありません。たまたま、同じTシャツを着た子がいた。

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