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退屈日記「6月のパリで、ぼくがコロナについて思ったこと」 Posted on 2020/06/01 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、6月になった。日常が戻って来たけれど、何かが違う。パリ市内に出ると、2月以前に知っていたパリと何かが異なってる。歩いている人は夏に向かって大胆な恰好(女性の肌の露出間が半端ない)をしているけれど、ほとんどの人たちがマスクをしている。そのマスクも個性的で、日本だとだいたい市販の白いマスクだが、手作りマスクがかなり多く、市販のマスクも鴨のくちばしのような変な形のものがあって、お国柄が出ている。でも、マスクを付けたフランス人の集団というのは、ちょっとドキッとする。これが今後は暫く標準の光景になるのだろう。いつまで、続くのだろう。オペラの交差点に佇み、世界を見回しながら考えた。ワクチンが開発されるまでは少なくともこの光景は続くかもしれない。ずっと付け続ける人も出てくるだろう、日本みたいに。日本のマスク姿が、世界の基準になった、ということである。

退屈日記「6月のパリで、ぼくがコロナについて思ったこと」



でも、人間というのはこれだけ劇的に世界が変容しても、適応する能力がある。マスクを付けたこともなかったフランスのおじさんたちが上手にマスクを付けこなしている状況がここにある。実は、明日からカフェやレストランが再開されるのだ。もちろん、まだテラス席だけでの営業だけれど、慣らし運転のような意味あいもある。政府は市民への衛生観念の強化を考えている。テレビで繰り返し聴くのは「日本人のように生きよう」というもはや合言葉だ。毎日、きちんと用心をすることでウイルスの感染は防げる、ということである。

テーブルとテーブルの間は1メートルあけないとならなくなったので、カフェのムッシュたちがメジャーを使って、テーブルの社会的距離を測っているニュースが流れていたけど、かなり滑稽だった。ただでさえ狭い路地に突き出したテラスを1メートル間隔にしたら、いったいどれくらいの客を収容でき、どのくらいの利益になるというのか。ギャルソンに給料を払えるだけの利益を得られるのだろうか? しかも、そのカフェのソーシャル・ディスタンスはいつまで続くのだろう? パリのカフェと言えばぎゅうぎゅう詰めのテラス席が売りだったのに。ここでも新しい変化が訪れることになるのだ。この写真のような光景は今後見られなくなるということである。

退屈日記「6月のパリで、ぼくがコロナについて思ったこと」



日常が戻って来つつあるけれど、これは以前の日常とは違う。明らかにかつてのパリではなくなっている。握手やハグやビズ(頬と頬を付ける欧州の挨拶)をしている人をもう一切見かけなくなった。だんだん、緊張感は薄れているけれど、警戒心が消え去ったわけじゃない。一応、抑え込んだというところだから、夏にかけて、人々が街に戻ってくると、再び若い人たちの中から感染が広がっていくのかもしれない。最近は深夜遅くまで若い子たちが外で盛り上がっている。明日以降、さらに多くの人が外出るだろう。日本もきっと緊急事態宣言が解除されて、久々の外出を楽しんでいるのだと想像をする。仕方ないことだと思う。ずっと籠って生きていくことは出来ない。ぼくも明日、さっそく、知り合いのカフェのテラス席でビールでも飲んでみようと思っている。

ギャルソンはマスクを義務付けられているし、客も席を立つ時、たとえばトイレに行く場合などはマスクをしないとならない、らしい。いやいや、不思議な世界になったものだ。パリの絵が変わる。ぼくは今日、コロナを主題にした長編恋愛小説を書き上げた。編集部に送ったのだけど、とっても奇妙な作品に仕上がった。コロナの時代に人がどうやって愛を深めていくのか、という物語である。読者の皆さんの心に、新しい愛の形を届けられるかどうか、作家の腕も試される。

自分流×帝京大学