JINSEI STORIES
退屈日記「自宅で作るバゲット、焼きたてが最高なのである」 Posted on 2020/05/19 辻 仁成 作家 パリ
最近、日本で売っているバゲットも本場フランスの味に近づいてきたが、(とくに京都のバゲットのクオリティはすばらしい)、ちょっと前まではいわゆるトラディションと呼ばれる皮パリ、中しっとりもちもちのバゲットに出会うことはなかった。日本では何故か「バタール」と呼ばれるぶよぶよの乾いた棒パンが出回っていて、フランスにもあることにはあるけど、日本のはバゲットというより、パンなのだ。バゲット・トラディションの表面はパリパリだが、掴んで押し返される弾力と湿度が特徴で、皮パリの歯ごたえは絶妙で、しかも中はしっとりもちもちしている。ぼくは渡仏したての20年前、バゲットは焼いた餅みたいじゃないか、と思ったことがあり、正月に砂糖醤油に付けて食べていた。人々は行きつけパン屋の焼きたての時間を知っているので、その時間には行列が出来る。この出来立てのまさに生き物のようなバゲットこそ、フランスの味で、世界中のフランスリピーターたちの目当ての一つであろう。若い頃は、バゲットを齧りながら歩くのが楽しく、お美味しくてしょうがなかった。
この焼きたてバゲットだが、最近、辻家では自宅製造に成功をした。パン屋の焼き立てバゲットは待たないとならない。食べたい時に食べられる焼きたてバゲットなら自宅で作るしかない。味噌だって、毎年作っているのだから、やってみようと思い立った。
フランスの小麦粉はType45, 55, 65と、小麦粉に含まれるミネラルの量で分けられている。僕はお菓子やふわふわのパン、豚まんの皮などに使うのはType45、ピザ生地にはType55、Type65はパン・ド・カンパーニュやバゲットを作るときに使っている。
実は、今、我が家の食料棚は小麦粉の在庫を抱えている。外出制限期間中、ずっと売り切れ状態が続いたこの小麦粉、スーパーで小麦粉を見かけると次は売り切れかも知れない、という強迫観念にかられ、ついつい買い物カゴに入れていたのだ。主夫の悪い癖である。その上、買った小麦粉は貴重なので使えなかった。ロックダウンが解除になり、スーパーにも小麦粉が戻ってきたので、そろそろ小麦粉を使おうという気になったのだ。すると棚の中にはType 65が結構あるじゃないか。「そうだ、ならばバゲットを作ってみよう」
ネットで作り方を検索してみると「簡単、美味しい、捏ねない、バゲットの作り方」というのがたくさん出てくる。日本語版のものもあった。家には窯がないので、オーブンで作ることになるけど、心配ご無用で、これが焼きたてならばパン屋さんにも負けないものが出来る。地元のパン屋に絶対勝てないのは味わいと持続力だ。美味しいところのバゲットだと、皮パリ、中もちもち感が一日中持続するのだ。プロには勝てないけれど、焼きたてなら、素人作でも美味い。
材料は、小麦粉、塩、ドライイースト、水、の4つのみ。
小麦粉に水を加え、イーストと塩を加えたら、もう、すでにパン生地の良い香りがしてくる。かなり柔らかいので不安になるけれど、生地は捏ねずに伸ばしては折り畳むという作業を数回繰り返す。すると、みるみる弾力が出てくる。捏ねないけれど、何度も生地を休ませるので時間はかかる。長編小説でも読みながら待てばこの時間も有効になる。2、30分に1回、生地の様子を見て、最後は生地が2倍に発酵するまで放置する。
生地がぷくぷくと膨らんだら、成形して、クープ(切れ目)を入れ、250度で20分くらい予熱したオーブンにバゲット生地を投入する。250度で5分焼いたら、230度に下げて15分程度。好みの焼き色になっていたら完成だ。小麦粉をふってあるので、表面に、うまいぞまだら模様が芸術的に出現、食欲を目からもそそってくる。
素人のバゲットなのでクープがしっかり割れないのだけど、そこはご愛敬。最初から熟練バゲット職人に勝とうなんて思うのは大間違いだ(いいわけである)。中の気泡の大きさやもちもち加減も徐々に好みに近づいていくはずだ。何事も経験である。もちろん発酵の具合も研究しなければならないが、焼きたてのバゲットは期待を裏切らない。ぜひ、試してみてほしいが、あとはType 65の小麦粉を探せ!
それにしても、小麦粉と水が持つ可能性は素晴らしい。この組み合わせを発見した人はもっと素晴らしい。麺とパンの発明がなければ人類はここまで幸せを味わえなかったであろう。バゲットを発明したフランス人にも感謝である。