JINSEI STORIES
退屈日記「サザエさんは24歳、天才バカボンのパパは41歳なのに僕は」 Posted on 2020/05/14 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、けれども、目が覚めると、そこに世界があって、また、朝が来たな、と思うところから一日がはじまるのだけど、思えば、もう、数えきれないほどの朝をむかえてきたことになる。ちょっと肌寒いのだけど、ベッドから出て窓をあけて、空を見て、晴れてるな、と呟いた。人間は寝て起きての繰り返し、ずっと生まれてから死ぬまで、そうなんだよな、と思いながら、一日がはじまった。キッチンに行くと、息子がやってきた。なんか食べる? 冷蔵庫をあけて、覗き込んで食材を物色して、小さなサンドイッチを作ってあげた。冷蔵庫を覗くのが大好きだ。中に何があるか、分かってるのに開けちゃう。落ち着くんだよね、冷蔵庫あけるの。ドアを引っ張る時のひちゃっと剥がれるような感じと、閉める時の吸い込まれるようなおさまり具合が好き。でも、開けるたびに、片付いてないので、後悔して慌てて閉めてしまうところなんか、毎日の決まり事みたいになっていて、和むんだ。
子供部屋にサンドイッチ持って行ったついでに、息子がウクレレを持ち、ぼくがガットギターでちょっと一曲、音をあわせた。Fly me to the Moonを軽く演奏した。歌は邪魔なので無し、ウクレレの音が和んだ。窓をあけて空気の入れ替えをしてやる。仕事場に行き、植物に水を与えて、話しかけてから、書きかけの小説をチェックした。最近は午前中を小説の時間にしている。昨日書いたところまでを読み返し、直して、ちょっとその続きをまた書いて、疲れたら筆を置く、みたいな、毎日だけど、きっとこの作業は死ぬまで続くのだと思う。タイプする時の、カタカタという音が好きだ。ぼくはもうすぐパリを離れると思う。離れたいと考えている。あと二年で息子は18歳、フランスでは成人になるので、ぼくはノルマンディとか、海の傍に引っ越す計画を練っている。そこで犬と二人暮らしをしたい。海を見ながら出来れば小説を書き続けたい。朝、浜辺を歩いて貝を集めて、昼はボンゴレにしたり。犬は毛並みのふさふさした大型犬がいいな。だいたい、この辺の海に住みたいという候補地は決めている。というのか、そういう生活を送るのだとパリで夢見ているのが、とっても和む。もう、都会はいいかな。灯台の近くの坂の途中の家を買うんだ。壁はオレンジ色に塗り替えたい。誰でも、自分の人生を自分で決めていいんだよ、とぼくは本棚の人形に向かって言った。もちろん、大変だけど、やろうと思えば出来るんだ。
息子がやって来て、パパ、凄いこと発見したんだ、と興奮気味に言い出したので、なに、と訊き返したら、サザエさんって24歳なんだよ、とまぬけなことを言った。それを言うなら天才バカボンのパパは41歳だよ、と教えてやった。それはおかしい、とフランス生まれの16歳が笑い出した。和む。お前、サザエさんとかバカボン知ってるんだ。何言ってるんだよ、ぼくはポールアンカも、フランクシナトラも好きだよ、と言い返された。和む。パパはサザエさんもバカボンのパパも抜いてしまったことになる。人間って面白いよね、と息子が面白いことを言った。ああ、とぼくは肯った。それは間違いない。人間は面白い。
ぼくはデンマーク産の家具が好きで、実は昨日、テーブルを買った。友だちの店に顔を出したら、ロイヤルコペンハーゲンのタイルが埋め込まれた可愛いターブル・バス(低いテーブル、1950年のアンティーク)があったので、超一目惚れ、大交渉が始まり、値切って値切って、ゲット。すぐに欲しいと大騒ぎをして、店主のクロスと二人で担いで家まで持って帰った。57歳と60歳が、階段で4階までこれを持ち上げたのだから、まだ、大丈夫だね。例えば、このテーブルの凄いところは沸かしたやかんをそのままテーブルに置くことが出来る。ティータイムに最適なのだ。人間が考え出す、こういうデザインの美しさと温もりに感動をする。オイルで手入れをして、いつか、海辺の家に持っていきたい。息子が誰かと結婚をして孫とか連れて来たら、みんなでお茶を飲む。ぼくが作ったパウンドケーキをここの上でカットしたりして、なんて素敵な夢であろう。さ、小説に戻らなきゃ。よっこらしょ。