JINSEI STORIES
滞仏日記「感染恐れ握手もビズも出来ないパリで新しい挨拶が登場」 Posted on 2020/03/03 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、パリもここに来て、慌てふためきだした。3日前まで薬局に大量に積んであったアルコール消毒の小瓶、どこも売り切れ。どの薬局にも「消毒液、マスク無し」の張り紙が。それどころかパスタの買い占めまで始まりだし、どこも一緒だ、と思った。ところがそれだけじゃない。フランスでは親しい人たちは挨拶の時にビズをする。頬と頬をくっつけるあの粋な奴だ。(アラブ・アフリカ系の人たちはおでことおでこをくっつける)それを左右交互にやる。映画とかでよく見るでしょ? アジア人はやらないけど、欧米人はビズされるのが仲間の証。昨日、連帯・保健省のオリビエ・ヴェラン大臣が、「暫くの間は、握手やビズは避けましょう」とアナウンスした。コロナ感染者が急に増えて、今日、ついにパリのモントロイユで親子の感染者も出た。市中感染が始まっている。ブルターニュでは集団感染も出て、どこに行ってもコロナの話題ばかりになった。
今日はスタジオでリハがあり、面白い光景を見た。ぼくがスタジオのロビーで案内されるのを待っていると、今時の恰好をした若い女の子たちがやって来た。赤い毛をしたポニーテールの女の子が、
「ねェ、新しいビズの仕方知ってる?」
と仲間に向かって言った。鼻ピアスをした子がぼくのちょうど真ん前で立ち止まり、知ってるわよ、と言って、目の前で二人は器用に足蹴りをやってみせた。ぼくは驚き、それ流行ってるの? と訊いてみた。赤毛の子が、
「流行りつつあるのよ、ビズが出来ないから、私たちのあいだでは」
と教えてくれた。
「教えてよ」
と言ってみた。(おやじ化、甚だしい)
いいわよ、と赤毛の子が言った。ぼくはギターを床に置いて、立ち上がり、彼女と向かい合った。まるで空手の試合いみたいである。
「まず、サリュー(やあ)って言ったら、こうやって、右足の靴を相手に出してね、あなたもやってください。で、靴の側面同士をごっつんこさせるだけ。簡単でしょ?」
「せちゅぬぼんにでー(いいアイデアじゃんね)」
すると、その子が大きな声で、サリュ、と言った。ぼくも、サリュ、と言い、靴と靴を一瞬ごっつんこして、離してみたのだ。彼女たちは笑いながら、スタジオに入っていった。どうやらダンサーの子たちみたいだ。黒人の、たぶん先生だと思うが、ぼくにガッツポーズをしてくれた。
リハが終わり、スタッフたちと行きつけの中華レストランに行ったら、マダムのメイライが、ビズも握手もしなかった。そればかりかシェフでご主人のシンコーさんがアルコール消毒の小瓶をこっそりと持ってきてテーブルの上に置こうとした。あ、持ってるよ、と小声で伝えると、「僕らが気を付けないとお客さんに迷惑がかかるからね、握手も出来ないし、常連客のためにこういうのを用意するようになったんだ」と苦笑いを浮かべながら言った。暫くはしょうがないですね、と言っておいた。中華レストランの人たちも自衛のために大変だ。お客さんの不安を払拭する努力をそれぞれがやっている。
ドイツも感染者が急増し150人。イタリアは1700人に迫る勢いで、死者は50人超。イタリアから戻った人や旅行者がポルトガルやチェコなど周辺国への感染の媒介者になりつつある。フランスも感染者が191人、死者が3人になり、市民に緊張が走っている。もはや世界的流行を止めることは出来そうにない。WHOがパンデミックを認めないのは世界がパニックになるからだろう。日本も検査を徹底したらこの程度の数字で済むとは到底思えない。イタリアや韓国は感染者を特定し、国益より抑え込みに必死だが、日本は検査を強制してないので、この後、どういう状況が待っているのかちょっと予測がつかない。
それにしても悔やまれるのは春節で中国人観光客を止めずに国内に入れ続けたことだ。経済を優先させたことが結果として経済を悪化させることに繋がっている。専門家の意見もきかないで独断で全国の学校に休校を要請したり、コンサートの自粛を要請するのは仕方ないにしても、コンサートの中止は補償出来ないという。じゃあ、もとはと言えば、春節止めなかった人たちが責任負うべきじゃんね、と思うのはぼくだけだろうか。しりぬぐいは国民っていうのが、歯がゆい。あそこで政治判断がきちんとできていたら、と悔やまれる。欧州では日本の没落がささやかれ始めている。いやだいやだ。中国はきっと復活する。イタリアも韓国も長い目でみれば抑え込みに成功するような気がする。日本だけが不透明だ。それは政治にしっかりとした方針がないからで、だからとって今すぐに違う政権がこの国難に対処できるわけでもなく、今は、この現政権に頑張ってもらうしかない。ということだ。
人類にとって経験のない事態が起きている。インフルエンザのように温かくなったら流行が終わるのであればいいが、これもわからない。いろいろ見極めながらぼくらは冷静に恐れ生きていかないとならない。
それにしても、暫くの間、フランスでは足ビズが流行るのだろうか。少なくともぼくの音楽仲間たちも今日から、みんな足ビズに切り替えることにした。
サリュ。