JINSEI STORIES
リサイクル日記「雨の日の日曜日、タタン姉妹とジャズとギャルソン」 Posted on 2022/10/16 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、雨の日曜日、早起きをしたのでラジオを付け、ジャズを聴きながら、本棚の整理をやった。携帯をチェックしたら書店のクリスティーヌさんから「あなたの『白仏」だけど単行本も文庫本もどこにもない。出版社にもない。増刷を待つしかないわ、どうする」と留守電。メルキュール・ド・フランス社の担当編集者、マリピエールに、「お願い、増刷して」とメールを送った。発売から20年以上の歳月が流れているので、いつかは絶版になると心配していた。買いだめしておけばよかった。手元に残っているのは5冊。大事にしなきゃ。
甘いものが食べたくなったので、傘をさして日曜日もやっているカフェまで散歩。たまにしか行かない店だけどギャルソン(かなりの年配のおじさん)はぼくのことを覚えていた。最初の頃はとっても愛想の悪い人で、(差別主義かと思うくらいだった)、でもある日、そこの常連がぼくを彼に紹介してから、笑顔を向けてくれるようになった。これは世界中どこも一緒。よそ者から知り合いになる瞬間がぼくは好き。知り合いになると途端にみんな優しくなる。50年前にも、きっと大勢の日本人がいたはずで、彼らはどんなだったのだろうね。ぼくは長髪で、ハット被って、カウンターの隅っこでコーヒーを飲んでいる変なオヤジだけど、きっと同じような偏屈な奴がいたんだと思う。ぼくは、タルトタタンを注文した。年季の入ったがギャルソンがでっかいタルトタタンをぼくの前にどんと置いた。
「知ってるかい? どうしてこいつが生まれたのか?」
肩を竦めると、年季の入ったギャルソンは得意げな顔で『タタン』という姉妹がいたのさ、と言い出した。こういう展開が大好き。日曜日で、雨が降っていて、客が少ないから、会話が弾む。ほ~、とぼくは呟き、にやけてやった。
「本当はアップルパイを二人は作ろうとしていたんだけど、ステファニーとカロリーヌね、タタンさん姉妹のタタンさん。ところがステファニーが長く炒め過ぎてしまって焦がしちゃったんだよね。焦った二人は捨てるのもったいないし、なんとかしなきゃってことになった。で、これは私の推測だけど、カロリーヌちゃんがね、何を思ったのか、パイ生地でフライパンに蓋をしてだな、オーブンにぶっこんだんだよ」
「なんで?」
こういう無粋な突っ込みは嫌われる。年季の入ったギャルソンさんは肩を竦め、しらないですよ、推測なんだからさ、と言って笑った。ぼくも一緒に笑っといた。
「で、焼きあがったので、さらにひっくり返してみたら、あ、イケるじゃんってことになって、それを客に出したんだ」
「客って?」
「タタン姉妹はホテルを経営していたんだ。そこの客に出したら大うけで、それ以降、そこの名物料理になる」
「どこ? ノルマンディじゃない?」
「違う。ソローニュだよ。フランスの真ん中の方だ。なんで、ノルマンディだと思った?」
「昨日の朝までノルマンディにいたからさ。あそこリンゴの産地だし、なんとなく」
「ムッシュ、冴えてるね。うちのタルトタタンはノルマンディ風なんだよ。ほら、これをぶっかけて食べるんだ。美味いよ」
そういうと年季の入ったギャルソンはクレームフレッシュの入った壺をぼくの前にどんと置いた。わ、美味そう。好きなだけかけていいわけだ?
「ああ、うちのはノルマンディスタイルだから、これをたっぷりとのっけて食べるんですよ。ボナペティ」
キャラメリゼされた甘くて酸っぱいリンゴと甘くて酸っぱいクレームフレッシュの相性は抜群。店の中にもジャズが流れていた。雨の日のパリにジャズとタルトタタンが似合う。ぼくは通りを眺めた。人のいない日曜午前中のパリ。ぼくはもう少し、散歩をしてから帰ることにした。