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滞仏日記「海見て心を落ち着かせたら、息子の待つパリへとんぼ返り」 Posted on 2020/02/29 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、夜中に物凄い雨音で起こされた。ノルマンディの海岸線沿いの崖縁に立つステファンの家のゲストルームは、建て増しされた安普請の部屋だからか、風が吹く度にガタガタと凄い音がする。パソコンを開いて、書きかけの小説を頭から最後までもう一度読んでみた。コーヒーを淹れ、猫舌なのですすった。息子からショートメッセージが届いていた。「日本風のオムレツを作って食べたよ。パパもちゃんと元気になるものを食べるように」と書かれてあった。写真が添えられていた。ほ~、美味そうじゃないか。もう、ぼくがいなくてもやっていけるな。日本風のオムレツってなんだろ???

滞仏日記「海見て心を落ち着かせたら、息子の待つパリへとんぼ返り」

滞仏日記「海見て心を落ち着かせたら、息子の待つパリへとんぼ返り」



夜が明けるまで小説の推敲をし、明け切ったところで、たぶん、朝の九時過ぎだったと思うが、外に出た。海まで歩いてみようと思った。家を出ると、物凄い風で、ふき飛ばされそうになった。小雨が降っていたが、傘などさせる状態じゃない。帽子を手で押さえ、坂道を下り、浜辺に出た。向かい風に目を細め、ポケットに手を入れて前傾姿勢で、とにかくひたすら波打ち際目指して歩いた。穏やかな時は家族連れで賑わう海岸線だが、ひとたび時化ると手が付けられない。打ち付ける風、横殴りの雨、呼吸が出来ないし、目が開かない。かもめたちはどこにいるのだろう、と思った。空も海も何もかもが荒れている。五分ほど海と対峙してから戻ることにした。

滞仏日記「海見て心を落ち着かせたら、息子の待つパリへとんぼ返り」



国道沿いに出ている魚介市場によって、アサリを買った。時化ってなければアサリを波打ち際で探そうと思っていたのだけど、とても無理であった。かもめが集まっている砂地の下にアサリはだいたい潜んでいる。でもかもめがいない。

魚介屋を覗いたがちょっとしかアサリがなかった。この時期の牡蠣はかなり小粒なので、やっぱりアサリが食べたかった。凄い風だね、と店主に言うと、4週間もこの状態だ、とっても珍しいことだよ、だからね、ちょっと高いよ、と言われた。一掴みのアサリが10ユーロもしたので驚いてしまった。マジ? 不漁なんだよ。なるほど。仕方ないね。じゃあ、ついでに牡蠣も少し。牡蠣はとれたて六個で6ユーロであった。

冬のノルマンディは誰にも会わない。寒いし、冷たいし、暗いので、みんな家から出ないのだ。でも、小説と向かいあうにはちょうどいい。パリにいると飲みに出たくなるが、ここは創作と向き合うのにちょうどいい。この暗さがたまらない。丘を越えた向こう側のトゥールヴィルにはマグリッド・デュラスが住んでいた家もある。寒くて暗い。作家には最適な場所なのかもしれない。

ぼくは会社員を経験したことがないので、会社に行って仕事をするということがどんなことかあまりわからない。ずっと一人でこもって仕事をしてきた。音楽をやる時はスタッフがいるから楽しいけれど、最近は弾き語りばかりだから、めっちゃ家内制手工業、一人文化部なのである。でも、一人が自分にはあっている。部屋に戻ったら、あまりに温かかったので、嬉しくなった。それで、アサリのワイン蒸しを作って昼ごはんとした。

「辻さん、地下室にワインがあるから、飲んでくれ」
午後、ステファンから電話があった。
「ありがとう。でも、仕事をしに来たから必要ないよ」
「どんなの書いているの?」
「大人の話しだよ。もう、いい大人たちの話しなんだ」
「へ~、それはいいね。今時の作家はみんな主人公を若く設定したがるからね」
「ま、もうぼくも若くないし、若くない人間が何を考えているのか、という話し」
「それ読んでみたい。小説家って、たしかに特殊で面白い職業だよね。孤独かい?」
「ぼくは孤独が好きだからね、特に苦じゃないよ。こうやって海を見ているのが好きだ」
「よかった。そこがお役に立ったみたいで」
「うん、でも、実は今夜帰ろうかな、と思ってる」
「え? 昨日来たばかりじゃない。もっとゆっくりしていけばいいのに」
「なんかね、息子が作ったオムレツの写真を見たら、家に帰りたくなった」
ステファンの笑い声が鼓膜をひっかいた。
「なるほど、孤独好きはどうした?」
ぼくらは笑い合った。海を見たら、心が落ち着いたので、それから、ひと段落するまで小説を書いて、ぼくは深夜にまた暴風雨の中、パリへ戻ることにした。こういうちょっと無駄な行動が好きなのかもしれない。 

滞仏日記「海見て心を落ち着かせたら、息子の待つパリへとんぼ返り」

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