JINSEI STORIES
滞仏日記、その2「イタリアの友人が我が家にマスクを着けてやってきた」 Posted on 2020/02/17 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、息子の幼馴染み、アレクサンドル君の一家を夕飯に招いた。お母さんのリサは息子のフランスにおける母親代わり、ぼくがシングルになってからは積極的に息子の面倒と世話を買って出てくれている。彼女がいなければぼくらはこの国で生きてこられなかった。いや、むしろ息子はここまで成長できなかった。なので、ぼくは季節ごとに彼らを招いて手料理をふるまっている。今日はフレンチのフルコースを用意した。ところが玄関に出迎えてみると、夫のロベルト、息子のアレクサンドルがなんとマスクをしている。その光景はここパリではかなり異様なものであった。
最初は質の悪い冗談かと思った。ついにコロナが流行しはじめた日本から戻ったばかりのぼくを気にしてのマスクかと…。ところがそうじゃなかった。ロベルトとアレクサンドルは風邪をひいてしまったようで、ぼくに風邪をうつさないための配慮だった。とくにロベルトは現在ミラノの銀行に勤めており、毎週末パリに帰ってくる。その機内でも、空港から自宅までの電車の中でも、ずっとマスクをつけてきたというのである。つまりそれは予防のためのマスクではなく、自分が他人に風邪をうつさないための配慮のマスクだった。マスクをしない欧州人にとって、これは本当に珍しい行いである。
「だってね、自分が風邪だと分かっていて、咳込んでいるんだから、人にうつすとぼくのせいじゃない。とくに辻さんは来月またライブでしょ、このくらい当たり前ですよ」
そう言いながら、咳込んでいる。ぼくの横にいるアレクサンドルもゴホゴホっと咳込んだ。心の中では「やばいじゃん」と思ってしまった。あと二週間でパリのライブだ。コロナウイルスじゃないのはわかっているけど、インフルエンザだって困るし、ここまで咳をしているのなら、今日はキャンセルしてくれたらよかったのに、と思ったがさすがに言えなかった。ぼくの背後に窓がある。ちょっと換気をしておいたほうが良さそうだ。
「今日はめっちゃ暖かかったね、まるで春の陽気だ。ああ、気分転換に外の空気を入れましょう」
と言いながら、ぼくはさりげなく窓をあけた。心の中では申し訳ないと思いつつも、歌い手が風邪をひくわけにはいかないからである。料理をするふりをして席を離れ、まずぼくがやったのは鼻うがいであった。(鼻うがいの仕方についてはちょっと前の日記に詳しく書いています)
「それにしても、フランスのメディアがこぞって新型肺炎に触れないのが不思議。世界中がこれだけ騒いでいるのに、この国のマスコミは黙っている。もしかしたらフランスにはもっと感染者がいるのじゃないか、とみんな疑っているのに」
とリサが興味深いことを言った。行きつけのカフェで今朝、大学教授のアドリアンが同じことを言ったので、これがにわかに真実味を帯びてきた。
「だって、日本の半分の人口しかないフランスなのに、中国人観光客があれだけやって来てたんだから、感染者が数えるほどしかいないというのはさすがにちょっと不自然じゃない?」
「人々がパニックになると経済が滞るからね」
とロベルトが咳込みながら言った。イタリアでも同じような感じらしい。イギリスの方がもうちょっと新型肺炎について敏感になっている。
「でも、中国の観光客がいなくなったでしょ」とぼくが言うと、リサが「ええ、全くみなくなった」と同意した。彼女らは観光の中心地シャンゼリゼで暮らしている。国際エコノミストでもあるロベルトに、欧州の経済への影響をきいた。
「日本が受ける影響ほどではないにしても、じわじわと出てくると思うよ。自動車部品などのストックが切れる3月以降が危ない。なぜなら我々が輸入している部品や生活用品のほとんどがいまやメイドインチャイナだからね」
面白いことに、ロベルトは食事中もマスクを外さなかった。マスクをしたまま食事をしているイタリア人、これは日記で紹介しなければと思って、一応お断りをしてから、携帯で撮影させてもらった。目の下にクマが出来ていて、顔はやつれ、相当に苦しそうだった。
「ああ、ぼくの男前がマスクで台無しだ」とロベルトが笑っている。
熱が酷いので、明日、朝一で病院に行く予定だと言い出した。だったら、なおさら、来ないでくれよ、オーマイガッ、と思ってしまった。でも、そうは言えないので、
「マスクをしてきてくれてありがとう」
とだけ言っておいた。予防のためのマスクだけじゃなく、人にうつさないための配慮マスクがこれから大事になっていくだろう。彼らが帰った後、ぼくと息子は部屋中を除菌し、手洗いにつとめたのである。