JINSEI STORIES
「毎日の家の仕事がぼくに教えてくれていること」 Posted on 2020/02/15 辻 仁成 作家 パリ
家事や子育てを通してぼくが学んでいることは、ただ一つだ。親の権利を手渡され、子供と不意に向きあわなければならなくなったあの時、ぼくはそこに意味を見つけなければ続けられないと思っていた。意地になっていたのも事実だが、それだけでは子供は育てられないと思っていた。愛情を持ってないと続けられないわけだけど、それだけでも続けられない、と思っていた。でもそうじゃなかった。
寒い日の朝に、子供を起こし、着替えさせて、朝ごはんを食べさせ、学校まで送る。戻って片付けをして、自分の仕事をし、買い物、夕飯の準備、迎えに行って、寝かせつけるまで、勉強をみたり、寂しい思いをさせないように話をしたり、これは生半可な気持ちでは出来ないことの連続であった。
自分は志し半ばだけれど、これまで好き勝手に生きてきたのだから、せめてこの子をしっかりと育てて世の中に送り出さなきゃ、となぜか思うようになった。そして、そういう日々の中でふと思うことがあった。なんでこんなことやらされているだろう、と息子の下着を洗いながら思うこともあった。でも、それらは世のお母さんたちが毎日やってることだった。自分を育てた母親がやっていたことだった。ある日、研いでいる米や、畳んでいる洗濯ものや、買い物に出かけたスーパーの列に並んでいる時に、思うことがあった。これが生きるということじゃないのか、と。子供が寝た後、毎日、子供部屋を覗きに行く。うなされていないか、泣いていないか、パジャマをはだけて寝てないか…。親の仕事はいくらでもあった。その一つ一つの生活の中に、ぼくは生きることの意味を嗅いでいくようになる。これは、得難いことであった。自惚れて生きていたら、きっと見つけ出せなかったことだ思う。顔つきが変わったね、と昔の仲間に言われる。穏やかになってるよ、と。こんなに厳しい生活の中にいるのに不思議なものである。苦しくて、大変で、逃げ出したいと思っているのに、穏やかになっているのだから。
負け惜しみじゃない。地道に生きている中で得られる喜びは、そうやって生きたことのある人にしかわからないものだと思う。こういう人生を与えて貰えたことはよかったのかもしれない。子供の日々の成長をじっくりと見つめることができた。逃げ出したいと思ったことは何度もあるが、やめたことはない。ただ一度も子育てをやめたことはない。生きることをやめたことがないように、である。生きることは素晴らしいと思う。苦しいけれど、有難いことだ。どう生きるのか、ぼくは毎日、自分に言い聞かせている。次の電信柱まで歩いてみよう。そこまで行ったら、その次の電信柱までもうちょっと頑張って歩いてみよう、と。それは家の仕事がぼくに教えてくれたことなのだった。冷たい水で米を研ぎながら、美味しいご飯が炊きあがることを想像する毎日は、素晴らしいことだ。かさかさの手は、日々の証である。
今朝、16歳になった息子と二人で朝食を食べながら、ここまで二人でやってきた人生について語り合った。食べ終わった息子が食器を持って立ち上がり、
「パパはよく頑張ったよ。ぼくはね、そのことを忘れないし、いつか自分の子供たちに同じことを返すからね。それでいい? それでいいよね」
と言った。ぼくは微笑みながら、小さく何度も頷くのだった。