JINSEI STORIES
滞仏日記「人付き合いに疲れた時にぼくが流すもの」 Posted on 2020/02/15 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、世の中はバレンタインデーだったそうだが、ぼくはチョコレートを自分で買って食べた。思えばもうずっとバレンタインデーなど関係ない日々が続いている。なんとなく投げやり気味な一日でもあった。息子は友だちに呼び出されたとかで出かけて行った。「誰と遊ぶの?」と訊いたら「バレンタインデーだからさ」と意味の分からないことを言い残した。食事の準備をしなくてよくなったので、ぼくはセーヌ川の川辺を散策することにした。揺れるセーヌの川面を眺めながら、そこに人生を重ねてみる。
セーヌはずっと流れ続けている。ぼくのようにこうやって多くの人が川面を見つめてきたことだろう。この川の近くで暮らすようになって、18年もの歳月が流れている。留まることのない川の流れに人生が重なる。輝く川面は一定にあらず。同じに見えるのだけど、それは常に流れている。パリの街は18年前も今もほとんど変わらないけれど人間は川面のようなもので常に入れ替わっていく。百年前も、百年後も、人々はこうやって川面を眺めては、そこに人生を重ねてきた。その流れは永遠だけど、川面は瞬間瞬間で入れ替わっている。その流れは時に残酷であり、時に優しかった。時に冷徹で、時に温かかった。時に非情で、時に寛大であった。ぼくは今日、有難いことに、ちょっと疲れている自分をその流れの中に見つけることができたのだ。一枚の葉が輝く川面を下って行く。鴨長明の「ゆく川の流れは絶えずしてしかも、もとの水にあらず」を思い出した。
人付き合いに疲れるのはどこかで無理をしているからに他ならない。けれども仕事関係とか、友人関係とか、恋人関係とか、どの人付き合いも必ず無理を連れてくる。生きている限り、人付き合いに疲れるのは当然なのだ。誰とも会わないで生きて行くことは今のところ不可能だから、なるべく、プライベートでは、自分を他者に合わせないようにするのがいい。自分が疲れていることに気が付かない人も多いので、日頃から自分は人付き合いに疲れていないか、と自問する必要もある。そういう時に川面を見つめるのが効果的かもれない。人付き合いもこの川の流れと変わらない無常である。気にしてもしょうがないことばかりだから、流す、ことが大切だ。「流す」という概念は人生に疲れないための鉄則だと思う。この大量の水の流れの一滴である人間に出来ることは、流れることを由として、その無常から心を逸らさずに、ひたひたと生きることかもしれない。気にせず、無理せず、流しつつ、流されつつ、人は流れていくのがいい。
ぼくは自分の中の流れが入れ替わったのを悟ってから静かに立ち上がった。振り返ると、そこに夕陽に染まるエッフェル塔が聳えていた。セーヌ川とエッフェル塔に人が魅了されるわけがその時にやっとわかった。