JINSEI STORIES

滞仏日記「パリに死す」  Posted on 2020/02/04 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、結局、息子と電話で話をし、今日は大事をとって学校を休ませることにした。本人に確認をしたら「まだちょっとだるい」と呟いた。よっぽど消耗しているのに違いない。実は試験期間中なので休むとかなり不利になる。月曜日中に終わらせ、火曜日からの試験に出させたい。頑張って来た努力が無駄になる。

咳は抗生物質で治まりつつあるのだけど、拗らせるといけないので、ぼくが東京から学校に連絡をいれることにした。ついでに旅行代理店にも「仕事を切り上げ、帰国を早めたいのだけど乘変出来るか」とメールをした。満席で変更は不可能、という連絡が午後に入った。ニコラのママが今日は息子の看病に立ち寄ってくれた。「昨日よりはずっと元気になっているのでもう大丈夫」というメッセージが届いた。一週間分(ちょっと多め)の食事を作り置きし冷凍庫に入れておいたので食べるものには困らない。しかし、16歳と言えども、まだ子供なので病気は心細いことだろう。こういう時にシングルは困る。しかも、コロナウイルスの拡大が懸念されている。ぼくが風邪をひいて機内で熱でも出したらパリに入れなくなるかもしれない、と心配にもなる。何が起こるのか予測の出来ない時代になった。空港でマスクは外せないので、もしかしたら、中国人と間違えられ、タクシーの乗車拒否もあるかもしれない。普段なら考えられない様々な事態について頭を巡らせてしまう。

今週は成績に関係する大事な試験が連日続く週なので、息子君、火曜日以降は何が何でも学校に行かないとならない。試験に供えて部屋で勉強をしている、と息子からメッセージが入った。「今日だけはウイリアムやエルザとスカイプで話すのはやめとけ、喋ると喉によくないぞ」「わかってるよ。だから、そんな体力は残ってないって」

滞仏日記「パリに死す」 



夫婦という組織はよくできているな、とつくづく思う。ニコラのパパとママの間にはいろいろと問題があるようだが、でも、二人が揃っているので子供たちは安心できる。二人いると子育ての弱い部分を補い合える。シングルの人は家事や育児をやりながら、働かないとならないわけで、ぼくのように海外在住者だとさらに大変である。それでも、ちびだった息子もぼくの身長を越えたので、これまでほど神経を使うこともなくなった。それでも、今度のようなことは起こる。フランスで生まれた息子はずっとここで教育を受けてきたので、きっと彼の中で、日本に戻る(そもそも日本から出発したわけじゃないので、戻るのはおかしい)という選択肢はないだろう。彼は日本が大好きだけど、成人するとき、フランスの国籍を選択するのが自然じゃないか、と想像する。残念とは思わないけど、自分が育てた子がフランス人になったら、きっと驚くだろう。彼にはその権利があるので、その時までに悩んで自分で決断すればいい。親が勝手に選んだフランスで、自分が選んだわけじゃないのに日本人の親の元に生まれ落ちた。こういうのを運命という。

ずいぶんと前のことだけど、「パパだってフランス人になろうと思えばなれるんだよ」と息子がぽつんと言ったことがあった。「それはあり得ないでしょ。寂しいの?」とぼくが返事を戻した。すると息子は苦笑し、「そりゃあ、自分だけフランス人になるのは寂しいでしょ。ぼくは日本人なのに。だから、出来れば一緒にここで生きてほしい」と。フランス人にならなくても、パリで死ぬことも出来るなぁ、とその時に思った。そういう責任はある。芹沢光治郎の小説「パリに死す」を思い出してしまった。



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