PANORAMA STORIES
失われた生と死を求めて ~ボルタンスキーに導かれ~ Posted on 2020/01/21 李 大成 ギャラリー経営 東京
アーティスト、クリスチャン・ボルタンスキーはあるインタビューで、このようなことを言っていた。アーティストは常に問い続けなければならない。その問いこそが創造である、と。そしてこうも。大事なのは作品そのものでも、作者、ボルタンスキー自身でもない。鑑賞者が作品に出会うまでのプロセス、その動機付けと結果にこそ意義がある、と。
このインタビューに共感したのがきっかけで、昨年行われた国立新美術館でのボルタンスキー展には二度行き、彼の作品がある瀬戸内海に浮かぶ豊島にも行って来た。彼の著作や研究書も多く読んだ。そして今回私の愛する街パリのポンピドゥーセンターで大きな展覧会が開かれるとのこと。無理を押して、パリ滞在正味二十四時間の旅に行って来た。
ボルタンスキーに影響されてか、私はパリへ行くことを決めてからの数ヶ月間、そしてパリへ向かう飛行機のなかでも、ずっと問い続けてきた。私は今まで確かに生きたのか、そして現在生きているのか、そしてこれから生きてゆけるのかと。いやこの問いは最近始まったことではない。もの心付いた時からだ。死への恐怖に取り憑かれた時からの、それに向き合う為の問い。生とは、死とは、その意味とは何か。このような考えに人は誰しも捉えられる時があるだろう。しかしなかにはそのようなものへの思考が、日常生活への配慮以上に重きを持ってしまう者たちがいる。私も少なからずそのようなタイプであるし、ボルタンスキーもそうだと思う。
ロシアにルーツを持つ改宗したユダヤ人である父、急進的な考えを持った個性的なフランス人の母のもと、ナチス・ドイツ占領下に産まれたボルタンスキー。その境遇から死、ホロコーストへの恐怖と関心は幼少時、そして成人してからも常に彼には密接なものであった。初期の絵画、そしてそれに続くオブジェやインスタレーションには死、それに至るまでの生、そして生の前にあったであろう世界への鋭く冷静、且つ、温かで慈悲深い思いが色濃く表れている。生と死というものへの敬意、軽蔑、憧憬、絶望、希求。対し方はその時によって違っていても、眼差しの先はいつも同じだ。
動物や植物にとって何よりの関心事は、生きて、子孫を残し、死ぬこと。それは人間も同じであろう。しかし社会や国家というものが出来て以後、ましてやホロコーストによって生と死というものの意味が吹き飛ばされてしまった、第二次世界大戦後の混迷を引きずる現在。果たして`失われた生と死`を求め、この世に、あの世に問いを発する、諦めの悪い、だが実直で敬虔な者がいるのだろうか。いるにはいるのである。だがそのような人は社会的には危険分子でもあるため、結果的に自滅してしまうか、抹殺されてしまう。その危うい所を巧みに、奇跡的にくぐり抜け、その考えを表現し、問題提起するのがアーティストである。その第一人者がボルタンスキーだ。
ボルタンスキーの関心は常に`私`に向いているように思われる。私を生んだもの、私が愛するもの、私を形作ったもの、私を破壊するもの、私が残すもの。だがその私とは果たして何か。私とはその瞬間の一現象に過ぎないのではないか。生まれてから死ぬまでの一瞬。しかしそれは連綿と続いてきたし、これからも続くであろうという意味で永遠でもある。親、祖父母、先祖、類人猿、微生物。子供、孫、その後の進化もしくは退化するであろう人類。受け継がれ、受け継がれる、生と死の記憶。だがそれを人は忘却する。能動的にも、受動的にも。その記憶を辿った先にあるもの、得られるものは何か。
人の顔写真がライトで照らされたり、ツリー状に飾られたモニュメント。この一見とても私的な、全く知らない、ばらばらの誰かたち。だがその個人は孤独ではない。普遍的な、時空間を超越した、私、私、私のイメージ。そのような私が集まり、世界は出来ている。生者も死者も、人も物も、共に仲良く永遠に、そして一瞬を生きている。戦争や束の間の平和、絶望や安楽、何があろうと。生と死の調和。普段の生活では希薄になってしまうこのイメージを、ボルタンスキーは明らかに、でもささやかに表現する。そしてその表れた姿の美しさ。この`美`という要素がボルタンスキーの特徴でもある。人と共にこの世にある、`もの`としてまず美しい。端的にそれは人の心を打つ。その良い例が寺社仏閣や教会といった建築物に漂う空間や時間であろう。それに近しいものをボルタンスキーは自身の作品に醸し出す。
または砂漠や雪原に無数に並べられた無数の風鈴たちのインスタレーション。
皆同じ風鈴だが、それぞれが奏でる音は少しずつ違う。それは風鈴自体の個体差でもあり、風や季節といった周囲の要素にもよる。それら条件が合わさって響き合う音、揺れるその姿の悲しくも優しげな光景。この作品からも漂う、生と死への息吹。永遠のようでもあり、一瞬のようでもあるこの調和。生きて死ぬことの儚さ、健気さ。
こちらは打って変わり、ボルタンスキーが幼少時からの愛用品を写真に撮り、オブジェにしたもの。他者にとっては何の変哲もないものかも知れない。だが確実にある時期私が大切に思い、共に過ごした`もの`たち。この`もの`という他者によって構成された私。その恣意性と寓意性。そこにまたつきまとう生と死。私とはとても個であると同時に他でもある。他と共生することによって成り立つ私。それを成り立たせる意志と運命。その様を真っ直ぐ見据え、捉えること。そして愛すること。
以上は特に感銘を受けた作品から、私が勝手に思い、考えたことである。ボルタンスキーの作品自体は、私の見出だしたことと直接的には関係がないかも知れないし、彼もそれを意図したのではないかも知れない。だが私は彼に導かれてパリにやって来た。そして今まで抱いていた問いが彼の作品と、様々な方向から結び付いていった。そしてその時、救いが生まれた。この問いから、救いへのプロセス。この一連の出来事を、ボルタンスキーは私に授けたのだ。それは私にとって、そして普遍的な私としての世界中の人々にとって大事な意味を持つであろうと思われる。そう、それは生きる、そして死ぬということの意味を問い、思い出すこと。時に問い、時に答える。その無限の可能性。過去‐現在‐未来、人‐物‐自然‐世界と共に、美しく、楽しく共存することを求めて。真の失われた生と死を求めて。
Posted by 李 大成
李 大成
▷記事一覧`gallery桃李`店主。家業の飲食業にも携わる。朝鮮学校卒業後、学習院大学、立教大学大学院にて文学や哲学、芸術や宗教を学ぶ。器や食べ物を通して、生きる意味を問う様々な活動を展開中。