JINSEI STORIES
滞仏日記、その2「今度は滝のような水漏れが、しかも、壁にひび」 Posted on 2020/01/18 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、先の日記で書いた通り、今日は息子から本当に感動的な話しを聞かせて貰ったのだけど、実は、それより遡ること6時間前、再び辻家を水漏れが襲った。それも滝のような物凄い水漏れである。ぼくは26日に控えたパリ公演を前に、10区のスタジオ・ブルーで4時間ほど歌の練習をし、夕飯の買い物をしてから、17時くらいに家に戻ってきた。その時は水漏れの兆しさえもなかった。ひき肉を煮込んで、ボロネーズソースを作った。18時くらいに息子がキッチンに顔を出し、
「今日は何? いい香り」
と言った。」
「ボロネーズ」
「いいね、お腹すいた」
「もう出来たから、ちょっと早いけど、食うか」
じゃあ、テーブル片付けてくる、と息子が水やグラスなどを持って先に食堂へと向かった。ぼくが茹でたパスタを皿に盛っていると、わあああああ~、と凄い声が轟き渡った。何事かと思うほどの叫び声である。慌てて食堂へと向かうと、廊下の先が滝のようになっている! 滝って、ここはどこ? 息子が濡れた服の水のしぶきを払いながら、滝の向こう側で天井を見上げている。水が落下し、ぴちゃぴちゃと床を叩いていた。何が起こったのか一瞬分からなかったが、まもなく、それが水漏れだと分かった。パリはよく水漏れが起きる。ちょうど一年前にも子供部屋で水漏れが発生し、3か月くらい前には漏電の恐れがあると修理屋までやって来て、結局、上の階のバスルームの下の配管を全て取り換えることになった。でも、今日、水漏れを起こしているのは、そことは反対側、別の家のようだ。どうやら学生たちが暮らしているアパルトマンから、である。ぼくは滝の下を潜って通り抜け、階段を駆け上がった。一昨日、下の階の家に泥棒が入ったことは日記に記した通り。やれやれ、この建物は呪われている。
ドアベルを鳴らすと若い女性が出来てきた。最近引っ越してきたばかりの大学生だ。恋人と二人で暮らしている。大学生と言っても30歳を過ぎている。彼らはシアンスポ―と呼ばれる政治家や企業幹部を育てる特殊な大学院に通っている、半社会人なのだ。将来は政治家になるような才能ある学生たちであろう。ぼくはフランス語が苦手なので、とにかく、うちに来て、水漏れを見てもらいたい、と告げた。彼女は驚いた様子だったけど、その時、奥にいた彼が、わああ、と息子と同じような叫び声を張り上げたので、彼女も何かが起きていることを察知した。一緒に下まで駆け下りてくれた。天井を見上げ茫然と佇む息子がいた。上の階の彼女が息子の視線を辿り、ひィィィ、とまるで映画みたいに口を押えて息をのみ込んだ。壁にひびが入り、そこから水が噴き出している。ポタポタというよくある可愛らしい水漏れではない。コップとかバケツを置いて凌げるような水漏れじゃない!最初の頃は流れ出ていた。彼女は、声にならない声を発しながら、上に戻って行った。
「パパ、何があったの?」
「知らないけど、トイレの水道管が破裂したと彼氏の方が叫んでいた気がする」
「トイレ?」
ぼくらは同時にお互いの濡れた髪を見た。まもなく、彼氏の方が降りてきた。そして、一緒に天井を見上げた。
「今、トイレの元栓をとめました。どうですか?」
「弱まってきていますね。あの、トイレって、どの水ですか? どの水??」
そこに息子がやって来て、動画の撮影をはじめた。弱まってはいるけれど、まだ、ぴちゃぴちゃと音が弾けている。動画を撮影しながら息子は彼氏の顔を振り返った。
「安心してください。トイレのタンクに入る直前の水ですから、綺麗です」
ぼくは笑ってしまった。息子も笑った。
「綺麗って」
「実は引っ越した時からすでに調子が悪かったんです。大家さんには何度も連絡を入れていたんだけど、直してもらえなくて」
「ひどいね」
そこに再び、彼女が降りてきて、ごめんなさい、と謝った。その日が彼らとは初対面であった。真面目そうな心優しい若者たちである。漏電が心配だった。少し前から、ぐんと電力が落ちる奇怪な現象が起きている。電気会社の人がやって来てチェックをした限りでは大丈夫そうであった。でも、今回はどうだろう?この家でぼくら父子は生き延びることが出来るのだろうか。水漏れ、漏電、泥棒、が続いた。最初の水漏れはその後、別の箇所からの二度目の水漏れを誘発し、いまだ壁は湿ったままで、塗り替え工事は行われていない。壁が完全に乾くまでできないのだとか。廊下の壁はさらに半年以上かかるので、辻家は来年まで湿気とひび割れの中で漏電を気にしながら過ごさないとならなくなった。ぼくと息子はすぐに風呂に入り、それから夕食を、キッチンで、とった。大家に丁寧な抗議の手紙を書きながら…。
そして、これが息子が撮影した、上の階のトイレの元栓を閉めた後の動画である。水流は落ち着いているけれど、ちょっとわかりにくいいけど、ぴちゃぴちゃと滴る音が聞こえる。驚き過ぎて、ぼくは写真さえも撮ることを忘れていたのだ。