JINSEI STORIES
滞仏日記「自分の身体と心のためにできること」 Posted on 2020/01/12 辻 仁成 作家 パリ
ぼくは暗い待合室に一人ぽつんと座って、先生が現れるのを待っていた。ぼくはモノがつかめないほど手から腕にかけて炎症を起こしている。ここ数年、ギターを叩く奏法に変えたのが原因であった。知り合いのミュージシャンに教えられたキネ(キネジテラピー治療)の理学療法士のクリニックにいた。本当に予約が通っているのかわからなかったけれど、とにかくひたすら待つしかなかった。するとそこに一人の男が入って来て、パトリック先生はここでしょうか、とぼくに訊いた。ぼくは、わかりません、初めて来たので要領を得ず、一緒に待ちましょう、と戻した。その男はなんだか落ち着かない感じで、もしかしたら神経が病んでいるのかもしれない、と最初思った。まもなく、前の治療が終わり、治療室から背の高い男が出てきた。ぼくを見つけ、「あなたが辻さんですね」と言った。すると、あとから来た男が、割り込んで、「パトリック先生を探しています」と口を挟んだ。「あ、ぼくですよ。何か?」するとその男は大きく一度深呼吸をしてから震える声で「ステファニーの息子です。昨日、母は天国に行きました」といきなり告げた。「昨日?」先生が驚いた声を発した。ぼくは今日、はじめて訪れた待合室の椅子に腰かけ、二人のはじめて会った男たちを見上げていたのだ。
ステファニーの息子は、
「実は、母は僕にずっとパトリック先生のところに行き、自分の体調が悪いことを伝えてくれ、と言ってたんです。なのに、まさか死ぬとは思わないから、半年以上もほったらかしていた。母さんは先生に自分がもう通院出来ないことを伝えたかったのだと思う。死ぬ直前にも、パトリック先生に、もう行けない、と伝えるように、と念を押された。それが最後の言葉になりました」
と言った。
声が震えているので見上げると、男は目に涙を浮かべていた。仕立てのいいスーツを着て、首に空色のマフラーを巻いた40代半ばくらいの紳士である。パトリック先生はその人の肩に手を当てて、後悔をする必要はない。僕にはちゃんと届いたから、もう安心してください、と言った。その人の後悔が自分にも押し寄せてきた。ぼくは暗い待合室で座っていることしかできなかった。男はぼくを振り返り、ごめんなさい、あなたの番なのに、時間を奪ってしまって、と謝った。いいえ、気にしないで、とぼくは小さく告げた。
「ステファニーは本当にきれいな人でしたよ。あの人の思い出が心に焼き付いているから、どうか後悔をしないでください」
パトリック先生がそう告げると、ステファニーの息子は目を閉じ、静かに頷いていた。
キネとは、骨折、スポーツの怪我、神経障害、呼吸障害などの患者が手術や治療を受けた後に、受ける手当のことで、もちろん担当医師がちゃんと処方箋を出し、保険が適応される。日本だとカイロプラクティックとか整体のような、ちょっとイメージとしてはマッサージにも似ているけれど、専門の4年生の大学を出て、国家試験を通って初めて開業できる。パトリック先生はその上解剖学のプロフェッサーでもあった。ぼくは上半身裸になり、まず、身体のバランスをチェックされた。
「顎が外れかけていますね?」
いきなり、ぼくの側頭部を触りながらそんなことを言いだしたので驚いてしまった。
「顎ですか?」
「寝ている時に歯を食いしばってる。ほら、ここの首の脇の筋、痛くありませんか?」
とっても痛かった。その部位がこんなに痛いことをぼくは今まで知らなかった。
「ギターの弾き過ぎで、腕から手先にかけて炎症が起きているけれど、強く声を絞り出すように歌うのですね? 指先や喉から全身に疲労が巡っています。片頭痛も直す必要がある。眠れないでしょ?」
「はい、眠れません」
「まず、自分の肉体を労わってください。自分にしかできないことですからね」
パトリック先生は、ぼくの体をまるでゴム棒のようにぐにゃぐにゃっと動かしていった。日本に戻る度に、指圧や整体に通っているけれど、キネは筋肉だけではなく、骨も動かし、一か所を直すというより整えていく。施術後は、骨を一度外されて、新たにつなぎ直してもらったような不思議な、そして初めての感覚を覚えた。
「辻さんは普段、水をあまり飲まないでしょ?」
「はい」
「たくさん飲んでください。とにかく、水を飲むことが大事です。自分を植物だと思ってください。枯れかけた花に水を与えるとしなだれた花が再び開くでしょ、あれです。今日は、自分で思うよりもぐったりしますからね、水を一リットル以上は飲んで。飲めば飲むほどに効きます」
治療室を出る時、ぼくは治療ベッドを振り返った。ここでステファニーが同じような治療を長年受け続けていたんだな、と思った。人間は残念ながら、寿命というものには勝てない。それは仕方がないことだ。あの息子さんの心は楽になっただろうか。たまたま、そこに居合わせたぼくの心の中に一度も会ったことがないステファニーがいた。彼女がパトリック先生の施術後、あの椅子に起き上がり、幸福そうにしているのを思い描くことが出来た。その微笑みを、ぼくも知っていた。ぼくは家に帰り、ギターをつま弾いて歌ってみた。腕の炎症は収まっていたし、声が驚くほどに伸びて、どこまでも突き抜けていくような感じであった。自分の体のことをもう少し大事にしなきゃ、と思った。