某月某日、今、自分は2020年に生きているのだ。これは本当にすごいことだと思う。朝起きてツイッターを覗いたら、世界のトレンドの一位が#Iranでその次が#WWⅢだった。WWⅢってなんだ、寝起きで分からなかった。ああ、第三次世界大戦のことだった。この時点の日本のトレンド一位は、#あなたの福袋メーカー、であった。（時差のせいもあるね、きっと）でも、欧米を中心に全世界の人たちは第三次世界大戦が起こり得る可能性を想像している。湾岸戦争が始まった時のことをぼくは思い出した。教科書で習った戦争とは全然違っていたけど、思い出せば、あの頃から世界はちょっと変な方に向かいだしている。恐ろしいテロが繰り返され、ロケットが飛び交い、軍備が拡張され、張りぼてのような豊かさのすぐ横に予期せぬ破壊が迫っていた。

朝ごはんの後、息子はマテオ君とイヴォン君とセーヌ川までランニングに出かけた。ぼくは小説と向き合ってから、コーヒーを飲むために行きつけのカフェに顔を出した。朝だったけど混雑していた。マスターのクリストフが「こんにちは」と日本語で言った。この人、日本が大好きなのはいいけど、ぼくを見かけると大きな声で「おげんきですかー」と叫ぶ、のやめてほしい。笑。日本語がちょっと喋れることを自慢したがるフランス人が増えた。在仏日本人が減った分、そのしわ寄せがぼくにふりかかる。店の奥の席に、この辺りで有名なシェフがいた。たまに行くので、わざわざ握手をしに来てくれた。「ボナネ」とぼくは言った。あけおめ、という意味である。「ボナネ」とシェフが返した。笑顔の素晴らしい人で、何より料理が美味い。きっともうすぐ星を取るな。カウンターには行きつけの雑貨屋のディディエがいた。いわゆるどの町にもいる偏屈爺さんなのだけど、なぜかぼくにだけはいつもクスっと笑みを向けてくれる。「ボナネ」と言って握手をした。二階からワイン屋のエルベが降りてきた。ナイキのマークのような笑顔を絶えず浮かべている豪快な男だ。「ボナネ」と言って握手をした。おやおや、みんな知り合いばかりじゃないか。

ぼくは急ぐ時にはカウンターで立ち飲みをする。立ち飲みするのはやはり男性が多い。日本の牛丼屋も最近は女性客が増えたけど、男女比はあんな感じ。カウンターにはむさくるしい男性が並び、女性は窓際やテラス席で談笑している。「お勘定」とクリストフに告げると、いらない、と首を横に振られてしまった。え？まじか。ラッキー。ぼくはスーパーに立ち寄った。週末の食材を買うために。帰りにレジのアジア系のマダムに「ボナネ」というといつもしかめっ面をしているその人が一瞬で笑顔になって「ボナネ」とかわいらしい声で言い返された。肉屋の入れ墨だらけのパンク青年にも「ボナネ」と言ったら、笑顔になって「ボナネ、いい年にしてください、ムッシュ」と言われた。教会の前でたぶん近所の人だと思うけど、見覚えのある人とすれ違った。「ボナネ」と声をかけると笑顔で「ボナネ」と声が戻って来た。怖い顔をしている人に近づき、ぼくは「ボナネ」と言った。すると怖い顔の人の顔が綻んで「ボナネ」と恥ずかしそうに返って来た。家に戻るとマテオとイヴォンがいたので、クレープを作ってあげた。イヴォンが「歌を聞きたいです」と言ったので「ガラスの天井」を歌ってあげた。子供たちが真剣に聞いていた。息子は嫌がった。変な父親感が世界に広まるのを恐れている。わかるわかる。「ボナネ」と言い残して早々に引き上げた。

夜、夕食を作ってから、ぼくは近所のバーに顔を出した。バーマンのロマンとサラがいたので「ボナネ」と言うと満面の笑みで「ボナネ」が戻って来た。写真家のピエール、モロッコ人運転手のリコ、アルジェリア人のユセフ、チリ人のヴァレンティ―ナ、大学教授のアドリアンと次から次に顔見知りがやって来て、ぼくは全員に「ボナネ」をふるまった。彼らは笑顔でぼくと握手をした。ぼくはどうやらこの街で愛されているようだ。18年もパリで暮らしているくせにフランス語のヘタなぼく。ま、物おじしないことと笑顔だけが取り柄なのだ。ユダヤ人のブリュノが最後にやって来て「戦争が始まるかもしれない」と険しい表情でぼくに言った。ぼくはブリュノの目をじっと見つめ、「その前にボナネ」と言った。するとブリュノが何かを思い出し、慌てて笑顔を拵え、「ボナネ」と言った。ぼくが帰ろうとすると、そこのオーナーがご馳走するから、もうちょっといろよ、と言い出して、オーナー自らウイスキーをグラスに注いでくれたのだ。結局、またもやタダで頂いてしまうことになった。ラッキー。フランス人がケチだなんて、誰が言ったのだろう。とりあえず飲み干して家に帰り、世界が慌ただしくても、ぼくはフランス語の勉強をした。