JINSEI STORIES

滞仏日記「二人きりのクリスマス」 Posted on 2019/12/07 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、もうずっと息子と二人きりでクリスマスをやって来た。最初の頃は、息子も幼かったし、カトリックの小学校に通っていたから、毎年その時期には教会での合唱会とか友だちとのクリスマス会とかあって、寂しい思いをさせたくないので、一生懸命飾り付けをして頑張っていたのだけど、去年はツリーを引っ張り出すのが面倒だから、ポルトガルへ二人で旅行に行った。ちびすけだった息子は見上げるほどに大きくなり、もう、ごまかさななくてもいい。高校生になった今年はどうやら何もイベントはないし、今のところどこにも行く予定はないし、もちろん、ツリーも引っ張りださない。フランスでは11月末くらいからクリスマスツリーを買う人が現れ、花屋さんの前にもみの木が並ぶのだけど、辻家にはもう必要ない。でも、あと二週間くらいでまたクリスマスだ。幸せな人には幸せなクリスマス。そうじゃない人にはどこか寂しいクリスマスかもしれない。



クリスマスというのはキリスト教の人にとってはバカ騒ぎをする日ではない。むしろ、家族と幸せに過ごし、祈る日である。うちの子は幼稚園からカトリック校だから、彼はその歴史や考え方をずっと学んできた。幼い頃はずいぶんとその影響を受けていたようだ。教会の人が教えに来るし、学校の近くの教会で主な行事が行われるので自然に信仰が身に着いた。そういえば、二人きりで暮らしだした頃、幼かった息子が不意に教会の前で跪いて祈りを捧げだした。彼にとってキリスト教は心を預けられる世界だった。

滞仏日記「二人きりのクリスマス」

中学に上がった時に、カトリックの授業(カテシスム)をとってみては、と勧めたことがある。ちなみに学校側は絶対に勧めることはしない。これはあくまでも自由意思で選択する科目だからだ。しかし、本人は悩んだあげく、ぼくはカトリックではない、と宣言した。でも、カトリックの学校は大好きだから続けると言った。彼にとって宗教とは何だろうと思う。ぼくは信仰がないので、この件について何も言えないけれど、ぼくの力だけではカヴァーできないところを息子は祈ることで乗り越えてきたように思う。だからこその毎年のクリスマスだったのだけど、ここのところずっと、彼が祈る姿を見たことがない。むしろ、日本の祖母の家に泊まる時、彼は必ず先祖の墓参りに行く。ぼくなんか一族の墓の掃除など一度もしたことがないけれど、彼は九州の実家に戻る度に墓参りをし、ジジや先祖のお墓に手を合わせて、掃除をして帰る。仏教については何も教えたこともないし、誰も強制したわけではないので、とっても不思議なことなのだけど。

だから、ぼくは今年のクリスマスをどうするか、でものすごく悩んでいる。小さなクリスマスツリーの偽物が地下室に眠っている。それを取り出して飾り付けてもいいのだけど、なぜか、手が伸びない。ある時から息子は祈らなくなったような気がする。自分の力で乗り切ろうとしてきたのかな、と思う。この子だけじゃなく、世界中の子供たちがこの思春期の中で、また不条理なこの世界で、いろいろと抱えて生きているのだと思う。だから、信仰のないぼくが代わりにいつも手を合わせている。どうか、世界の子供たちが幸せに生きて行ける地球でありますように、と。

滞仏日記「二人きりのクリスマス」