JINSEI STORIES
滞仏日記「海外で生きる日本人たち」 Posted on 2019/11/15 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、圧迫骨折で入院した母が、今日からコルセットを付けることになった。来週からいよいよリハビリが始まる。弟曰く、通常よりも回復が早いと看護師さんに褒められたのだそうだ。よかった。
テレビ局の取材チームは母さんが急遽入院したこともあり、パリにやって来た。年末放送予定の「伝説の母ちゃん」という番組らしい。その中のワンコーナーで辻恭子さんが紹介されるのだとか。伝説の母ちゃんかどうか、わからないけれど、面白い人であることは間違いない。新刊を読み込んでくださったプロデューサーさんたちの質問攻めにあった。
朝の十時に撮影現場に赴くと、カメラマンが古い友人のきんちゃんだった。出会ったのは20年前のことで、やはりテレビ番組の撮影か何かで…。その後、ぼくがパリに移り住む時のサポートなどを手伝ってくれた。ぼくときんちゃんは意気投合し、15区に共同オフィスを構えたこともあったが、きんちゃんはぼくに負けないくらいの頑固者で(10歳年下のだけど)とにかく大ゲンカをして袂を分かつことになる。なので、この15年近く、同じパリに住んでいながら会うこともなかった。でも、お互い嫌いになったわけじゃなく、お互い自分を曲げなかったというだけのことで、大人げない喧嘩が原因であることはもちろんお互いわかってもいた。よくある話だ。あれから15年、不意の再会となった。
「お、きんちゃん」
「どうも、じんさん」
きんちゃんはぼくのことを「じんさん」と呼ぶ。
パリにいる日本人たちは変わり者が多い。ぼくを見れば一目瞭然だが、とにかく超変わっている。日本ではきっとやっていけないのでパリにいるような、つまり、ぼくのようないい意味でも悪い意味でもはみ出した人間ばかりだったりする。でも、その変わっているぼくらも、パリだとそれなりに普通になる。そこがパリの懐の深さだと思う。集団社会ではうまくやれないけど、自分のペースでならばなんとか自分の世界観を創出できる人ならば、たぶん、パリにむいているのである。
その在仏日本人も大きくわけて二種類いる。日本人社会と徒党を組むチーム、そして、日本人社会とは一切関わらないチームだ。ぼくはその中間かもしれない。韓国人、中国人の方々は組織的でナショナルチームという感じだけど、日本人はフランスに限らず、ドイツでも、イギリスでも、イタリアでも、どこでも徒党を組む人は少ない。チャイナタウンとかコリアンタウンはどこにでもあるけど、リトル東京はもうほとんどない。(アメリカにはまだあるのかな?)ハワイは特殊だと思うけど、この群れない孤高な感じが日本人の特徴だと思う。
「お、きんや、お前まだ生きてたのか?」
「じんさん、かわんないすね。ほんとぜんぜん変わらない」
きんちゃんはずっとぼくの中では永遠のきんちゃんなのである。一緒にキックボードを蹴って、パリ中を走り回った。一緒にZOOを歌った。居酒屋で飲み明かしたこともあるし、うちに入り浸っていたこともある。愚痴を言い合い、慰めあったこともある。大ゲンカしたこともある。でも、こうやってまた再会することができた。でも、もう昔のようにつるむこともなければ、飲み歩くこともないだろう。でも、いい仲間がここにもいた、という事実だけはぼくの記憶の中に焼き付いている。
さて、「伝説の母ちゃん」だけど、どういう番組になるのかぼくには見当もつかない。母さんのリハビリの結果待ちである。ただ、プロデューサーさんたちもコーディネーターさんもいい人たちだった。ぼくはオペラ地区のど真ん中のアパルトマンのキッチンで、母さん譲りの手料理を作らされた。新刊「84歳の母さんがぼくに教えてくれた大事なこと」の中に登場する、ぼくが母に料理を教わるくだり。その再現ドラマなんかもあるらしい。その流れでの料理の撮影であった。出来上がった料理をきんちゃんがバクバク頬張っては、「美味い、美味い」と連呼していた。そういえば、きんちゃんはしょっちゅう我が家にやって来て、ぼくが拵えた飯を喰っていた。よく食ってた。「美味い美味い、じんさん、美味い」と叫んでいた。30歳だったあのきんやも50歳になった。あの頃に比べるとずいぶんと丸くなった。人のことは言えない。ぼくもそれなりに丸くなった。お互い丸くなったが、まだまだ、命、尖がらせて、がんばろうや。頑固で何が悪い。