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滞仏日記「恋が人を育て、愛が人に成す」 Posted on 2019/10/28 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、息子の恋人がパリにもうすぐやって来る。その日がついに、あと、3日と迫った。今朝、息子から部屋をキレイにしたい、と申し出があった。どういうこと?
 「だから、大掃除をしたんだけど、あか抜けないんだよ。で、貯めてたお小遣いでカーペットと整理ダンスと小さなテーブルとパイプ椅子と造花の鉢植えを買いたいんだ」
 「造花の鉢植えってなんだ?」
 「だってさ、部屋が殺風景だからさ、わざわざ遠くから来るんだもの、いい環境を作っておきたいじゃん」
 「ここに来るのか?」
 「来るよ。いったじゃん。パパ、許可くれたし。忘れたの? 朝の9時にパリについて、夜の9時に帰るんだよ」
 「で、パパにどうしろというんだ?」
 「買い物に付き合ってもらいたい。たまには外に出た方がいいよ、つきあってよ」
 ということでぼくが運転手になり、郊外のIKEAまで車を走らせることになった。
 
ちなみに息子の部屋はゴミ屋敷のようだったが、恋人が遊びに来るということで昨日の夜から大掃除をやり、確かに見違えるようにすっきりとなっていた。これまで捨てきれずにいた子供の頃のぬいぐるみなどを思い切って断捨離し、家具の配置換えなどもやり、ゴミ屋敷はデコ雑誌のようなスタイリッシュな部屋へと生まれ変わった。恋の力は凄い。いや、実に凄い。恋が人を育て、愛が人に成すのである。

ぼくらが目指したIKEAは市内から車で30分ほどのティアスという町の商業施設内にあった。日曜日で、しかも雨なので他に行くところがない家族連れで賑わっている。息子は彼女にいいところを見せたい。いい環境を作り、いいムードを演出したいのである。野暮なことは言っちゃダメだ。自分だってそうだったじゃないか、とぼくは微笑みが零れそうになるのを我慢しながら若い頃の自分と息子を比較するのだった。

溢れるフランス人をかき分けながら、IKEAの店内を二人で並んで歩いた。整理ダンスは必需品だしちょっと高いのでぼくが買ってやることにした。カーペットと小さなテーブルとパイプ椅子と造花の鉢植えは贅沢品だから自分で買いなさいと言った。彼にはキャッシュカードを最近作ってやった。お年玉などをそこに貯金しはじめた。恋人と付き合うようになってから、お金が必要になった。それまではお小遣いさえ必要ない、と言っていたが、ナントまで行く新幹線代とかデート代とか必要になって、お金というものの価値を理解するようになった。ぼくは出来るかぎり助けないことにしたので息子は節約を覚えた。お小遣いは恋人が出来てから30ユーロ毎月あげている。日本円にして3千6百円程度だが、物価の高いフランスだと日本における2千5百円程度の価値であろう。やりくりするのは大変だと思う。でも、お金がなくても彼らはハッピーだ。恋人が出来てから息子はケチになった。とってもいいことだと思う。前は5ユーロあげるから買い物行ってと頼んでもやらなかったが、今は逆に、何かアルバイトない? と聞いてくる。彼は将来の自分の職業についても食べていけるものかどうか、で考えるようになった。ぼくは夢を追いかけこの年まで生きてきたけれど、夢だけでは食べていけない時代になった。親戚も頼る人間もいない外国で生きて行かないとならない息子を鍛えるのは親の仕事である。ぼくが生きている間に、処世術は教えていくつもりだ。ぼくが死んだ後、この子がこの国で家族を作って生き抜くために必要な方法は全部命がけで教えてやりたい。45歳差の年の差を乗り越えて。
 「パパは単行本が一冊売れるとだいたいバケットが一本(約120円)買える印税が入る。120円だ。本を売るのは大変な時代だからね、だからパパはバケットを残さず食べるようにしている。君も働いて自分で稼ぐようになるとわかってくる。生きて行くことがどんなに大変かということを。子供が出来たら、パパがそうしているみたいに、君も子供たちを養わないとならない。だから、お金を疎かにしちゃだめだ。わかるな」
 恋人が出来てよかったことは息子が世の中と向き合う大きなきっかけを与えて貰えたことである。彼は限りあるお小遣いを駆使して彼女のパリ滞在を限りなく素晴らしいものにしようと計画している。もう子供ではないのだ。そこがとっても大事だと思う。

息子は最後に造花の鉢植えを買った。一鉢3ユーロであった。家に戻り、息子は整理ダンスやパイプ椅子を組み立てた。ぼくもちょっと手伝ってやった。振り返るとパソコンのキーボードの横に造花の鉢植えが二つ置かれてあった。それは彼の成長の証でもある。ちょっといけてないとは思うが、そこは15歳だ、余計な批評は避けることにしたい。

滞仏日記「恋が人を育て、愛が人に成す」